【9回目の失敗~独立した上司が豹変】

目次
1. 上司の独立~32歳で取締役に
2. 芽生えた疑問
3. 変わっていく社長
4. パーティーに出るな!
5. 袂を分かつとき

1.上司の独立~32歳で取締役に
  32歳くらいの時に、僕は制作会社の株主で役員になった。僕をアルバイトで拾ってくれて、育ててくれた上司が、独立して会社を興したからだ。これが最初の役員経験だった。
 僕よりも年上の同僚が数人いたが、僕が一番その上司と付き合いが古かったので、株主兼役員にしてもらったのだ。株主といっても資本金1,000万円のうちの50万円。役員と言っても、〝取締役課長″という変な肩書だった。
 僕は、この会社を大きくすることに燃えていた。それは、独立する前の上司と、『独立したら、お金を沢山儲けて、映画や面白いものを作ってみたい』と、何回も理想を話していたからだ。
 独立してからの僕は、一層働いた。気乗りしない仕事も受けたし、売上と利益が立ちそうな仕事は多少のリスクがあっても取りに行った。その中で、自分のやりたかった、プロモーションビデオやスポーツビデオは、効率が悪いと社長に言われても、自分のバランスを取るために、休み返上でこなしていった。忙しくても、責任と達成感があって充実した1年目だった。

2、 芽生えた疑問
    決算で会社に利益が出てから社長の言動に「?」が付くことが出てきた。
 利益が出たら、映画や権利が持てる作品を作ろうということを忘れて、内部留保が殆ど無いプランを言い始めたのだ。それは社員よりも株主を優先した利益処分だった。僕は驚いたが、設立して1年目でご苦労も多かったことだから、仕方がないのかもと考えて、その時は「?」を封印した。
 2年目は、前の年より数字が伸びた。今度こそ、夢の為に資金貯めるんだろうと期待していたが、そんなことは無かった。
 それから、社長の言動を注意するようになった。
 社長は、スケールが小さくなっていた、相変わらず、営業としての嗅覚は、逆立ちしても追いつけなかったが、兎に角、お金を使いたがらないのだ。一例をあげると、映像の制作会社で必要な作業用のテープを作る機材の導入に対してなかなかOKを出さないのだ。僕を含めて社員は、その機材が無いばかりに、夜遅くロケから帰社しても、作業用のテープを作成できる会社へ費用を払って撮影してきた素材テープを持ちこんでいた。費用はそんなに大きなことは無かったが、その会社との往復の時間や、その会社では当然他社の作業用のテープも作っていたので、待たされる時間が無駄だった。これについては、何度もみんなで意見をあげてようやく中古の機材を入れてくれたが、会社としては十分に利益出ているのに、どうして判断しないんだろうという疑問が残った。
 ある日の事、我々と懇意にしていた人から、数十万円ほど、自分が作る映画に出資してもらえないかという打診があった。中身を聞いて、儲かるような映画では全然なかったが、制作する意図と中身が悪くなかったので、出資しましょうと、社長に進言したが、社長は、頸を縦に振らなかった。
 僕は、この頃から、社長は変わったと思うようになった。
3、 変わっていく社長
 今まで口出しをしてこなかった仕事に対して効率が良くないから止めろと言い、売上が大きくても利幅が少なく、歩間違えばリスクを負う仕事をやれと言うようになった。
 僕は、仕方がないと思いながらも、こなしていたが、ある時、このままじゃダメだと真剣に考えることが起こった。それは、通信衛星を活用した衛星放送いわゆるCS放送の番組制作だった。
 社長がとってきた仕事なのだが、予算が今までの仕事よりも段違いに少ないのだ。1,000万円の受注に対して利益が20%だったら、200万円だが、100万円の20%は20万円にしかならない。僕は焦った、こういう仕事の受注を続けていたら、会社の成長も社員の給料も上がらない。
 僕は、社長に、権利をとる仕事をしましょうと話したが、お金を減らす出資を嫌う社長には聞き入れてもらえなかった。僕は社長の姿勢に疑問を持った。
 今の社長の経営のやり方を見ていると、自分が現役の間は自分のギャラを稼がせるために社員が必要で、自分が引退したら、残る社員がどうやって食べてゆくか、考えていないように見えたのだ。そして、映画を作る、出資して権利と得る、という二人で話していた夢も語らなくなった。僕は、この会社にいる意味を失いかけていた。

4、 パーティーに出るな!
 そして、とうとう決定的なことが起こった。
 僕が結婚の報告を社長にした時だった、社長が不機嫌になってしまたのだ。理由は、社長は子飼いの僕を可愛がっていたので、僕の結婚式に仲人をすること常々言っていた。僕も仲人をお願いするつもりだった、しかし、僕は入籍だけで結婚式をやらないことを選んだ。それが社長の機嫌を損ねたのだ。
 この時は、社長の期待に応えられなかったのだから、社長が不機嫌になっても仕方がないと思っていた。
 僕の結婚に、パーティーを開いてくれる人が出てきた。僕に仕事を振ってくれていた出版社の局長だった。局長は、自分の部下と僕と一緒にビデオを作っていたフリーランスの人たちに声をかけてくれて、青山で結婚記念パーティーを開いてくれた。僕も会社にはパーティーを開いてくれることを報告し参加をお願いしたが。僕の会社からは誰も出席しなかった。
 僕は、社長が止めたんだなと思った。それは事実だった。

5、 袂を分かつとき
 社長への忠誠心は消えて、自分の今後を考えるようになった。結婚して子供が出来たら、この会社では養ってゆくことが出来ない。僕は転職を考えるようになった。程なくして、前に知り合っていた商社出身のベンチャー企業の社長から、うちに来ないか、と声をかけて頂いた。その社長がパイプを持っているCS放送の会社へ、番組やライブの放映権の販売をやって欲しいというオファーだった。僕は、これを受諾すれば、宇宙戦艦ヤマトの西崎さんの会社で見聞きしていた〝権利ビジネス″に携わることが出来ると思った、僕は会社を辞める決心をした。
 それから1か月以上、お世話になった社長へ辞表をなかなか出せなかったが、出したらあっさりと受理してくれて移籍が出来た。
 この社長は、アルバイトで拾ってくれて、僕がやりたかった特撮の現場も経験させてくれて、僕の映像業界における基礎や経験は、全て社長の元にいたことで身につけることが出来た。恩は一生返せないし、僕が社長が引退するまで支えるものだと、ずっと思っていた。20歳で拾ってもらって、34歳まで、一緒に仕事をし、会社を変わるときは行動も共にしてきた。

 しかし、独立したら社長は人が変わってしまった。

 僕は、この会社を辞めてからは映像制作をほぼ封印し、権利ビジネスに仕事の軸足を移した。
 

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