【7回目の失敗~狡猾な野郎から得た教訓】

目次
1、 パソコンのソフトのハウツービデオ
2、 狡猾な演出家
3、 屈辱
4、 狡猾な演出家は誰を見ていたのか?
5、 自前のスタッフ
編集後記


1、 パソコンのソフトのハウツービデオ
 20代後半、パソコンの普及が進み、ソフトの使い方を映像で紹介する販売用のビデオを制作することになった。当時、この分野に詳しい演出家はなかなかいなくて、部長が昔から仕事をしている演出家に依頼することになった。そして、制作には僕が指名された。
 部長の旧知の演出家ということで、僕は100%信用して撮影の段取りを進めた。最初の打合せでは、演出家の知識がいかんなく発揮され、打合せが終わる頃には、クライアントと監修の先生が初対面にもかかわらず演出家を信頼している様子がハッキリと見て取れた。僕は、lコモ演出家に任せておけば安心だと、その時思った・・・。

2、 狡猾な演出家
 当時のパソコンの画面は、モニターに映しだされた文字や画像をビデオカメラで撮影する手法が一番、画面を鮮明に撮影できた。しかし、モニターに近いところで撮影すると、画面の文字が鵜歪んで見えたりするので、モニターからカメラを数メートル離して望遠レンズで撮影した。
そして、画面の映り込みを防ぐために暗幕でモニターからカメラのレンズまで覆わなければならなかった。
 出演者と撮影スタジオの手配が無事完了し撮影が始まった。少ない予算とタイトなスケジュールで、撮影日数が予定より削られ、朝7時に集合して夜22時に終了するスケジュールを3日間組んだ。夜22時に終わらせるのは、後かたずけや諸々の事で、23時になってしまったら、スタッフをタクシーで自宅まで帰だなければならないというルールがあったからだ。
 初日、撮影は順調に進んで、予定通り終了した。僕は、次の日の準備や諸々の事を考えて、この3日間は、会社に泊まり込むことにしていた。
 2日目、7時集合して。準備を始めようとしたが、メイクが来ていなかった。出演者はスタジオ入りしていたが、メイク室に入れないということが起こってしまった。慌てて警備室に駆け込んでメイク室を開けてくれてと頼んだが、警備員は、メイク室はメイクの会社がカギを管理しているので、警備員はカギはもっているが、開ける権限が無いと言ってきた。僕はそれでは困るから何とかしてくれと頼んだが、頑固な警備員は首を縦に振らない。そうこうしているうちのようやくメイクがやって来た。予定よりも30分の遅刻だった。時間が押しているのでメイクに注意する暇もなく撮影が始まった。演出家はメイクが遅れてきたことに対しては不機嫌だったが、撮影が始まると段取り良く撮影を進めてくれた。僕はこの調子だと30分の遅れは取り戻せると安心していた。夕方になって、夕食の弁当を食べているときに僕は気にかかっていたことを演出家に話した。それは撮影が順調に進んでいるのも関わらず、30分の遅れを取り戻せていない事だった。演出家はわかっていると答えてくれたので、22時には終われるな、と思った。
 22時に終わる期待は見事に外れた。この日の終了は22時30分だった。スタッフのタクシーの手配が待っていた。僕は、演出家に抗議した。演出家は、「今日は30分遅れたスタートしたから、キッチリ30分押して終わらせたんだよ」とニコニコしながら言い放った。僕は怒りがこみ上げて、「巻いて撮影すると言ったじゃないですか」と声を荒げたが、演出家は、僕に取り合うこともなくさっさと帰っていった。その夜、悔しさのあまり会社で眠ることは出来なかった。

3、 屈辱
 撮影3日目最終日、この日は予定通り終了した。次にやることは、撮影した映像を繋いで作る仮編集した映像をクライアントと監修の先生に見せて、内容の確認を取ることだ。
 僕は、映像の仮編集ができるVHSの編集機がある部屋を数日間借りて、演出家に作業をしてもらうようにしていた。仮編集の作業は順調に進んでいるように見えた。クライアントも差し入れに来て、仮編集のプレビューの日を早めたいと言ってきた。演出家がいいですよと答えたので、予定よりも早く、プレビューが行われることになった。プレビューの日の前日の夜、演出家の言葉に僕は耳を疑った。演出家が突然、プレビューの日は立ち会えないと言ってきたのだ。クライアントも監修の先生も関係者もプレビューの日をピンポイントで決めていたので、動かすことは不可能だった。僕は、どうしても立ち会えないのかと何度も聞いたが、無理の一点張りだった。
せめて、納得のいく理由を教えてくれと頼んだが、理由も教えられないと突っぱねられた。
 僕は完全に演出家に見下されていた。
 翌日、演出家が急用で立ち会えない旨をクライアントや関係者に伝えて、プレビューが始まった。最初はニコニコして見ていたクライアントと監修者だったが、だんだん、顔が険しくなっていった。終了後、開口一番、これでは全くダメですね、といつもはおとなしいクライアントがきつい声で言い放った。僕は次にくる言葉を予想した。○○さんを呼んでください!この場に!クライアントはここにはいない演出家の名前を出して僕に詰め寄った。僕は、演出家がどこにいるかもわからないので、すみませんと謝るしかなかった。だが、クライアントの怒りは収まらず、怒りの矛先は僕に向けられた。怒鳴られ、なじられ、心を石のように固めて耐えて、嵐が過ぎ去るのを待った。1時間してクライアントは帰って言った。沢山の文句と沢山の修正箇所を指摘して・・・。僕は、ホッとするよりも、いわれのない口撃でずたずたにされた屈辱で怒りに震えていた。
 翌日、演出家に修正箇所とクライアントの怒りを様子を伝えて作業をさせた。演出家からは、とっても軽い「ごめんね」の一言しかなかった。

4、 狡猾な演出家は誰を見ていたのか?
    撮影から編集までいろいろとあったが、どうにかこうにか納品することが出来た。しかし、撮影が押したことと仮編集でのクレームがたたって、利益は全くでなかった。僕は部長に叱責された。しかし、今回の件は納得がいかなかったので、僕は部長に、部長が使えと言った演出家なのにこうなったんですよと、抗議した。
    演出家は担当である僕ではなくて、部長を見て仕事をしていた。何かあっても部長にいえば大丈夫と考えていたらしい。事実、部長はこの後も、この演出家に仕事を振っていた。
    プレビューの日、演出家がいなかった理由もわかった。東京ドームでのマドンナの公園を女と一緒に見に行っていたと、悪びれる様子もなく笑いながら僕に話した。僕は殺してやろうかと思った。

5、 自前のスタッフ
   僕は、この時から、自分の仕事は自分の信頼できる人にしか頼まないようsすることと、上から紹介されたスタッフは絶対に使わないと心に誓った。して、その為の人脈つくりの励み、様々な演出家と組むことによって、信頼できる人たちを探し当て、自前のスタッフで仕事が出来るようになった。
   信頼できる自前のスタッフだった人たちとは、30年たった今でも交流は続いている。

編集後記
 狡猾な演出家は、その後、東南アジアの伝説の財宝を発掘できる、とテレビ局に企画を持ち込み、調査費を出してもらい発掘を約1か月撮影した。しかし、何の手掛かりも出ず、発掘と撮影は中止となった。その後、彼の姿を見たものはいない。

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