「失敗」あれこれ1⃣ 初めての失敗

はじめに

社会人になってからの「失敗」を書いてゆきます。
手痛い失敗から、挽回できたことや、失敗の後、自分がどう成長したかも綴ってゆきます。
これを読んで、「失敗」を必要以上に恐れることなく、自己実現を失敗ごときで諦めないように思ってもらえたらと思います。

【初めての失敗】
1984年、20歳で映画の専門学校を出て、アルバイトで入った会社は、主に「カラオケビデオ」を制作している会社だった。
月8万円+交通費。保険も何も無かったが、一番やりたかった世界へとりあえず入るができたので、これでだめだったら、田舎へ帰る気持ちで臨んでいた。

  バイトとして最初の仕事は、業務用ビデオテープの整理で、幅が1インチ(約2,5cm)
の一インチテープに何が記録されているか、タープの中に入っている記録表を見て、書きだして、テープに記録されている映像を残すかどうか判断するためのデータを作ることだった、当時、1インチテープは4万円くらいの高価なもので、完成した映像が記録されているテープ以外は、都度、消去そして3回くらい使いまわすのが普通だった。
  
その事務所へ通い始めて、間もなく、「十和田奥入瀬の雪解けと弘前城の桜」の撮影のアシスタントとして、1週間青森へ撮影に行くことになった。
生まれて初めて、飛行機に乗るので、万が一でも落ちたらと考えて、出発前にアパートの部屋を掃除して整理整頓して、エロ本を全部捨てて、もし死んで親が部屋に入っても大丈夫なように身ぎれい?にして、神妙な気持ちで、東亜国内航空の飛行機で青森へ向かった。

最初の撮影地は、十和田湖で、雪解けを探して奥入瀬を歩き、雪解けで勢いを増している渓流や滝、春の兆しである、ふきのとうなどを撮影した。レポーターがいない、自然を相手の撮影だったので、日が明ける頃から暮れるまで、寒さと闘いながらの仕事だった。曇りの日が多くて、画的にはちょっと沈んだ感じの映像が殆どになってしまった。
春を感じる映像が少なかった・・・。

天気を気にしつつ、弘前城の桜を撮りに弘前へ入ったが、曇りと雨で、満開の桜を撮ることもできず、五部咲きくらいの桜しかカメラに収めることしが出来なかった。
この時の撮影で、プロの洗礼を受けたのは、弘前城城址公園を道に沿って撮影している時に、頭を下げて車を止めようとしたが、止まってくれない車も多く、業を煮やしたディレクターから、「道路に寝て、車を止めろ!」と怒鳴られた時は、さすがに足がすくんだ。幸い、道路に寝ることは無かったが、後で聞いたら、ドラマの撮影では本当に、道路に寝て、車を止める猛者もいるらしかった。

全日程が終了し、帰京することになったが、天気が悪くていい画が殆ど全くと言っていいほど撮れなかったので、責任を感じて気持ちがひたすら暗かった。東京へ帰りたくないとも思っていた。

帰京して間もなく、ディレクターと上司が、撮影してきた映像について話をしているのを横で聞いていた。
その会話の中で、映像と一緒に記録用で撮っていたスチール写真をどう使ってゆくかということが話し合われていて、先ずは、フィルムを現像に回して、写真にして、それから、良いものを選んで〝スライド″にしようという会話の内容だったのだが、これを、
全てスライドにしてから、良いものを選ぼうと、聞き違えてしまった。

会社が契約しているラボへフィルムを持ち込んで、『全てスライドにしてください』と発注してしまった。
出来上がりを取りにいって、ディレクターと上司に見せたとき、二人顔が曇ってしまった。
何故、全てスライドになっているんだ?
上司が僕を睨んでいた。僕はしどろもどろになって、スライドという言葉が聞こえたので、スライドにしたんですと、答えた。
「馬鹿っ!スライドは、フィルムを写真にしてから、どれにするか選んでするつもりだったんだ!」
血の気が引いて、頭が真っ白になった。何も考えられなかった。
直ぐに頭に浮かんだことは「クビ」になることだった。
せっかくもぐりこんだ業界ともこれで縁が切れるのかと、絶望的な気持ちになった。

兎に角、泣きそうになってひたすら謝っていたら、怒りが収まった上司が、お孫さんに僕が似ているからという理由で許してくれることになった。生き返ったような気持ちになった。この時の気持ちは一生忘れない。

これ以降、打合せの内容や、何をしてとか、どこへ行ったかとかを手帳にメモるようになった。
のちに、会社対会社でもめたことがあった時は、僕のメモが、営業さんの役に立ったことがあった。

仕事の初歩中の初歩として、人の話はきちんと聞いて、人間はすぐ忘れる生き物だから、メモをしっかり取って、ミスをしないように準備することを学んだ。


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