はじめまして
目標を決めたら、そこに向かって走り出す〝ハンター”。
目次
・小学校から高校時代
・落ちこぼれ、映画と特撮を志し専門学校へ
・専門学校を卒業するとき(20歳)
・現場で遅刻したとき(22歳)
・クビだといわれた社長に会社を辞めるなと引き止められたとき(25歳)
・念願の映画を作るが大赤字を出してしまった(29歳)
・映像制作から離れて権利ビジネスへ(34歳)
・新しいメディアに取り組むとともに、出版に足を踏み入れた40代
・未知のアニメグッズに挑む 混迷の50代
小学校から高校時代
小学校から中学までは、いたずらや授業中に騒いだりして、先生によく引っぱたかれたりした。
高校は、落ちこぼれの極みで、授業についてゆけず、学校をサボって、田んぼの中を自転車で移動していたら、警察に見つかったことがあった。
高3の時は、卒業試験で赤点をもらい、追試でどうにかこうにか、ビリから2番目の成績で卒業できた。
映画と特撮を志し専門学校へ
中学校の時に、特撮やスポ根ドラマの再放送があり、懐かしく見ていたら、小さいときの、カッコいいとか怪獣が好き、とは違う印象を持つようになった。それは、脚本と監督によって、話の面白さが全然違うという発見に繋がった。
高校3年の時は、ほとんどの同級生が大学へ進学を目指しているのを横目に、とにかく田舎を出たいと考えていた。そして専門学校に目を付けたが、案内カタログを読んでもピンとこなかった。
自分は何をやりたいんだろうと考えていた時に、テレビの深夜番組でATGを中心とした作家性の強い映画を放送する枠を見つけた。
この枠で放送される映画を見て、意味が判らなくても情熱を感じる作風に魅せられ、映画を作ってみたいと思うようになった。そして、実写特撮にも関わってみたいと思い始めた。
親の反対を担任の先生まで担ぎ出して説得してもらい、映画の専門学校へ進むことになった。
専門学校を卒業するとき(20歳)
専門学校時代は途中まで順調に進んだ。授業の終わりによく質問をして、早く帰りたいクラスメートに文句を言われたり、生まれて初めてクリームパフェを食べて感激したり、充実した学生生活を送っていたが、2年目の夏に腰を痛めて半年間学校を休んでしまい、卒業制作に参加できなかった。このままでは卒業できない、と諦めていた時に、年上のクラスメートに呼び出されて、お前の名前をクレジットに入れたぞ、と言ってくれた。
そのお陰で卒業することができた。そして、学校へ挨拶に行ったときに、腰を痛めるまでは、無遅刻、皆勤だったので、バイト先を紹介してやると言われて念願の映像業界に片足を踏み入れることになった。その会社はカラオケビデオを制作したり、特撮の合成も行う会社だった。この会社で特撮に触れることができた。夢を一つ叶えた。
現場で遅刻したとき(22歳)
ドラマの撮影で、集合時間に遅れて、撮影に参加できなかったことがあり、
もうこれで終わりだと、1週間無断欠勤していたら、二人の先輩がアパートに訪ねてきてくれて、会社に出てこいと言って救ってくれた。
その時、3発殴られた。
翌日、出社して皆さんに謝って回った時に社長以下皆さんにかけてもらった言葉がうれしかった。
クビだといわれた社長に、会社を辞めるなと引き止められたとき(25歳)
アニメやビデオを作る会社にいたとき、退社する人の送別会で、酔っぱらった社長に「お前はクビだ」と言われてしまった。上司に救ってもらってクビにならなかったが、その1年半後、私が会社に辞表を出したとき、私のことをクビだといった社長が、赤坂の高級寿司屋に私を招待してくれて、ギャラを挙げてもいいから辞めるなと、言ってくれた。その時、生まれた初めて松茸を食べさせてもらった。
念願の映画を作るが大赤字を出してしまった(29歳)
映像業界に入った最大の目標は、30歳までに映画を作ることだった。
チャンスがあって、29歳の時に目標を達成したが、会社に大赤字を負わせてしまった。
この時は、真剣に死んで詫びようと考えた。
しかし、逃げずに仕入れ先との支払いについての交渉など後処理をこなして、会社の信用を取り戻した。
その時の処理で、公証人役場での代物弁済という手法で、赤字分で映画の権利を買って資産にできることを学んだ。
映画の権利を手に入れたことで、ビデオ以外の回収もできるようになった。
赤字を回収する権利ビジネスを体験する切っ掛けをつかんだ。
映像制作から離れて権利ビジネスへ(34歳)
一通り、映像制作を体験して、次にやることは何か考えていた時に、IT系の会社に入社した。この会社は衛星放送関連の会社と繋がっていたので、国内外の番組の放映権や来日したアーティストのライブの放映権を販売した。
更に、映像制作に次ぐくらい好きだったプロレス格闘技の大会の放映権を販売した。
本格的な権利ビジネスを実践できたが、大好きなことをビジネスにしてしまった反動で、プロレス・格闘技に興味を無くして卒業してしまった。趣味を仕事にする反動は大きかった。
新しいメディアに取り組むとともに、出版に足を踏み入れた40代
衛星放送関連の会社に移って、当時普及し始めたDVDの映像の権利の仲介を行い、その後、ブロードバンド配信の為に、映画やアニメ、テレビ番組の配信権を販売した。
DVDやブロードバンドの権利取得は、結構大変だった。権利元へ訪問して、いかにその作品が好きかを熱く語り、当時のお話を伺いながら1時間以上、話しをするのが常だった。だいたい、1時間半以上話し合えると、権利を売ってもらえる感触を得られた。
一番、長く話してO.K.を頂いた時間は4時間だった。狙った作品は、ほぼ、獲得できた。その後、所属していた会社が、出版社を買収し、初めて出版の営業に携わることになった。
書店とチェーン本部への営業が新鮮で、書店では忙しい書店員さんへの声がけのタイミングをつかむのに苦労したが、本の注文を取るのが楽しかった。
チェーン本部の営業では、中部地区を担当していたので、3か月に一度の出張があり、それに合わせて作戦を考えて提案し、大量の注文を取れた時があった。
未知のアニメグッズに挑む 混迷の50代
出版社の次は、未体験のアニメビジネスに突入していった。しかしながら、50歳になっていた自分の感性では、深夜帯のアニメの面白さがわからなかった。これは、致命的なことで、熱烈なファンやマニアが望むデザインの良し悪しが全く理解できず、この分野だけはもっと早く体験していればと後悔してしまった。アニメビジネスに挫折した後、出版社に勤務しているが、再びハンターになれる、燃える要素を探している。