【三回目の失敗】

 22歳の時に全く思ってもいなかったことを先輩から言われた。
 それは、カラオケビデオのディレクターをやれ、という指令だった。
 このころ、会社では、僕が所属していた部署の部長が、新興のビデオメーカーの制作部長として引き抜かれ、僕を含めた部下の間で、部長についてゆくか、会社に残るか判断を迫られていた。
 僕は、自分の知らない世界を知りたくて、部長についてゆく事に決めた。無断欠勤していた僕を連れ戻しにアパートへ来てくれた先輩も部長と行動を共にすることになった。
 しかし、僕を3発殴ってくれた先輩は、会社に残ると決めていた。
退社する日が決まると、先輩二人から、記念と餞に、カラオケビデオのディレクターをやってみろと言われたのだった。


 元々、演出家かシナリオライターのような、クリエイティブな事をやりたかった僕は、業界に入って2年足らずで、ディレクターをさせてもらうなんて異例のことだなと思たが、チャンスだと考えて、受けることにした。不安を感じながら・・・。


 曲は、中村あゆみさんの「真夜中にラナウェイ」だった。1986年
撮影用のコンテ作りに挑んだが、イメージが頭に浮かんでも、カットを割ることがなかなかできない。どこで引いてどこをアップにするか・・・。
 悩みに悩んで、コンテは完成した。
 曲のタイトルから、舞台は夜に設定した。
 カラオケビデオは、1日で2曲分の映像を撮影するのが常だったので、撮影当日は、先輩が担当する曲を先に撮って、僕が演出する曲はその後で撮影した。
 この日は、ベテランのカメラマンが来てくれたが、人を見るタイプのカメラマンだったので、僕はこの人にしっかり指示を出せるかどうか、不安だった。
 先輩の撮影が無事終わり、いよいよ僕の番が来た!
自信が無くて、腹をくくって開き直ることも出来ない状態で、コンテどうりに撮影を進めていったが、自信が無いから、撮ることだけが精一杯で、面白いかどうか考える余裕が無かった。そうこうしているうちに、件のカメラマンの態度が変わって来た。
 僕が毅然とした態度で指示をださないものだから、カメラマンが動かなくなってしまったのだ。そうなると、僕は益々、自信を無くして、こうしてとって欲しいと言えなくなっていた。さすがに、先輩のディレクターが見かねて、僕に助け舟を出してくれたが、それでも撮影の進行は早くならず、最後の方は、時間も押し過ぎて朝方になってしまった。
 ようやく撮り終えたとき、終わった解放感は微塵もなく、敗北感だけが残った。そして、この時、自分はディレクターに向いていないと悟った。理由としては、僕はスタッフを引っ張ってゆく事が出来なかったからだ。

 ディレクターの資質として、作品の良い作品を作ることも大事だが、それ以前に、自分の意図した画作りをするために、スタッフを動かす能力が必要なのだ。僕には、一番大事なその能力が欠けていた。
 撮影した映像を編集したが、画に意図を伝える力が無く、使えるカットもギリギリで足りないくらいだったので、ただ、指示通りに出演者が動いてるだけのものになった。
 クライアントは、僕への餞ということで、納品させてもらった。
 僕は、惨めな敗北感とともに、上司とともに次の会社へ移籍した。


 クリエイターを諦めた僕は、何を基にして、映像業界を生きて行けばいいのか、目標も、立ち位置も、判らず、知らない空間を彷徨っている感覚だった。
 才能よりも前に、演出家(リーダー)として人を引っ張ってゆく覚悟ができていないまま、ディレクターを受けたのが間違いだった。先輩が助けてくれると甘えてしまったのである。

 チャンスは巡って来たが、チャンスを生かせる実力がついていなかった。だが、このチャンスに負けてもチャレンジした事で、映像業界で生き残る術を必死になって考えるようになった。

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