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世のあらゆる名言や一般論は大して正確でないという持論

よく人生は〜だの、〜とはこういうもの〜だの、〜なら〜だ〜のと、様々な名言や一般論が説教気味に人々の口から飛び交うが自分はあまりそれらが好きではない。なぜなら大して①[世の理というのは一意的に、単純明快に一言で済むような都合良く、"わかりやすく"決まるものではない]からだ。世間的に好まれる名言や自己哲学らはどれもフワッとしてかつ、抽象的すぎて具体性に大いに欠けるものばかり。それらの世の言う、"名言"を聞いて何一つ特定の問題が解決するための答えになるわけでもない。ただ聞き手はそういう、"単純明快で完結な結論"を聞いてスッキリしたい(分かった気になりたい)だけなのだ。


正義という概念を考察してみる

①の証明として、ロジック大破綻な沢山の名(迷)言に溢れているコンテンツ、漫画がよく挙げるテーマ、「正義」を考察してみる。

まず典型的な命題として「人を殺してはいけない」があるがそもそもなぜ"いけない"のか。法が定めているから?倫理的に反するから?

前者の場合、無法地帯ならばいくらでも殺しをしていいということになるが、無法=倫理的に認められるとは限らない。やはり大多数が後者を答えるだろう。

"だがなぜ反するのがいけないのか。いけないからいけないのではないのか。"といった具合にあとは無限ループとなり、それ以上の正当性の証明を言語化することはできない。

好きなものをなぜ好きなのかと質問されて「好きだから」と答えるように、倫理に関する真理は、その正当性の証明をそれ自身でしか証明できない再起的、根源的な真理だからである。つまり「倫理」や「正義」、「正しい事」なんてのは、論理性なんて一ミリもなく、赤ん坊でも大犯罪者でも「感性」と「理性」があれば誰でも定義できる。

だから典型的な「何が正義か」なんてテーマ、人間一人一人の感性が違う時点で、特定の事象に対して全ての人間が同じ様に正義/悪と感じることが不可能な様に、考えること自体が不毛でしかないものだと思う。結局正義とは、一人一人の感性が違う(全員が同じでない)時点で絶対的ではなく、それぞれの主観に沿って相対的である。

ならば世間一般の共通認識の方の「正義」を決めるのは何か。それは多数意志によるもので、こればかりは人間が社会的な集団動物であるが故に他ならない。

先程挙げた命題、「人を殺してはいけない」に対して「基本的にはナシだが、倫理的(社会的)に善となる背景、目的、意図をもった上でなら容認」といった答えもあるだろう。

だがそれは正義の概念を理解するのを避けたその場凌ぎでしかなく、結局、

"戦争の兵士や死刑執行官はそのokな方に含まれるのか?戦争の場合、自国の方が悪だったら兵士は?無自覚・無知だった場合は?自国が正義の方だったら勝つためにどこまでの行為が許されるのか?"

といった絶対的な答えのない論争(:政治)をエンドレスに繰り返すことになる。

世間的に絶対的に真とされてる信条や考え・思想も同じで、結局それらが大多数に認められてるから真であるだけであって、人々が思ってるほどこれらの形而上的な真理は強固な論理性で定義が枠組みされてるわけでもない。"誰にでも再定義・否定されられる"というノーガードなだけに脆い。なぜなら人々の頭の中・思考だけは実体あるものとして何者にも絶対的に支配・制御されることはできないから。

...といった具合に...

...といった具合に一度「正義」の概念について考察するだけで、ここまで委細に書き連ねないといけない。聞き手をスッキリさせるのが目的な、"名言"や"格言"といった短く単純明快さを追求するのとは違い、こういった論文形式で書き連ねたがよほど正確性は上がる。今回の考察について結論を出すのなら、

「人々は皆正義というルールの定義権をもってるが故に、正義は絶対的ではなく相対的なものである。他の形而上的概念・真理もこれと同様である。」

...とな感じで結論でさえも一言で出されるようなのとは真逆の様態をとる。

結局なにを伝えたい?

結局なにを伝えたいのかというと、世の言う"格言"や"名言"に対して、それらを聞いただけで完全に物事を深く理解した気になるのは軽率だということ。

これらの主張に、個人的に募った不満や思念を原動力にしたかと聞かれれば否定はできない😛

まぁ絶対中立な主張なんて存在しないし、感情・感性もつ人間な時点で必ず主観的意図が出てしまうのは致し方ない。



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