命は大切か?という話[全文公開販売]

前々からときどき、「それって偏った見方が過ぎるのでは?」と思うことがある。それはヒトに対してでも他の生き物に対してでも、ある特定の状況を「かわいそう」と決め付けることだ。

つまりそこには、状況にベタッとラベル貼りがされているかのように「これこれであれば、かわいそう」という観念が存在する。
その状況を経験している当事者がどう感じているかを個々にじっくり聞いてみたわけでもないのに。

そう、観念そのものは決して真実ではなく、ある観念を信じているとき抱く感想や反応は、自分自身の定義によって導かれた解釈と感じ方なのだ。

たとえば、私は最近はまっていたアフリカの旅番組を見ながら、出演者のひとりが時折見せていた「動物を殺して食べることへの葛藤、自問自答」のシーンをきっかけに、自分が行うアニマル・コミュニケーション(動物とテレパシーで意思疎通すること)とあわせて、以下のことに思いを馳せていた。

私はわりと自分の活動の中で動植物の話題を取り上げ、あわせて食についても語ることがあるので、さぞかし「命を大切に」思っている人なのだろうと、ちょっと見だけだと思う人がいるかもしれない。
が、私は命をあえて軽んじることには同意しないが、かといって、命を物理的に(身体的に)継続することが何よりも大切だとは思っていない。

つまり、生きることが善、死ぬことは悪、であるかのように自動的に捉えることはしないし、死を「終わり」と捉えてもいない。むしろ、生命というのは「ただ生きること」を指すのではないと強く思っていて、これまでも様々な形でその考えの本質を発信してきた。

「死ななければ、それで幸せ」なわけがなく、もしそうなのであれば、自死を選ぶ人など出ないだろう。
人間は誰でも結局生きたいものだ! と思い込むのは間違っているし(その前提がしっくりくる人は自分自身に当てはめればいいが、他者もそうであるはずだと考えるのは思い込み)、そう思えないでいる人に「生きているだけでありがたいと思いなよ」と、さらなる負荷をかけることは逆の効果を生むだろう。

ここまでは人間についての話だが、私としては他の生物に対する人間の態度にも同種の決め付けを感じることがよくある。人間の、とある種類の死生観とものの見方をそのまま反映してものごとを解釈しているのだ。

人間に対する以上に、他の生物に対しては本能という言葉で「何がなんでも生きようとするはずだ」と捉えがちなようだ。でも、全生物に意思があり、自分で死を決意する(自然死に見える場合でも)。

というわけで、ある状況が本当にかわいそうなのかどうかは、その当事者に(人間以外の生物にも)各々、どう思っているかをしっかり聞いてみないとわからない。
そして命の大切さについても、身体的な意味での命の継続のことではなく、「どう生きているか」が各々の存在の「生きたい気持ち」を決めると理解した上で語りたい。

言い換えれば、私たちにはここでの体験(人生)を望む根源となった意識内の目的があり、それが私たちの「生きたい」という気持ちを支え、維持しているのだ。

「生きること」を物理的に捉えすぎないことは大切だ。果たして、あなたの内にある「本当に生きること」と、それとはイコールなのか。
人生の中で選択に迷う折にこそ、何があなたにとって「本当に生きること」なのかを心で感じてみよう!

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