興醒めゾーンを抜けたら、会得するもの

2022年あけました! 新年第一弾のこの記事は、スピリチュアリティーの道における「興醒めゾーン」を取り上げる。これは私が2021年に講座(オンラインではなく会場に集まって開催)にしようか唯一検討したテーマである。

ただ、このテーマは「この世界内での希望を抱き、それを生き甲斐にする」ことの正当性を打ち消してしまう(だからこその興醒め体験となるのだが)ため、注意深い扱いと、「その体験の先」についての私自身のしっかりした実感を伴う説明が必須だと感じていた。
さらには、この話をするためには対象者も、当noteで言えば★霊的目覚めと創造★マガジンにあるような内容を理解できている人が望ましい。というかどうしても、そういう人に限定されてしまう。なぜなら、それらの理解の「後」にくる段階、経験するであろう状態を私は指しているからだ。

私が「興醒めゾーン」と名付けたこの体験も、他のテーマと同様に各個人によってどのように経験されるかの「形」は異なる。それを踏まえてもなお、講座でこれにフォーカスして語り、受講者各々の疑問点や感想をシェアする場を設けることは面白そうに思えた。しかも「興醒めゾーン」そのものは、私が知っている限りスピリチュアルな教えにおいて深く語られていない印象があるのだ。

結果として昨年は実地での講座を一回も行わないことに決めたし、このnote上でも半端にそのテーマにふれたくなかったので、記事の更新自体が少なくなった。何かを書きたいときには気軽に読める無料記事の更新をぽつぽつ、ということが多くなり、時折有料記事において別テーマのやはり大切な内容を取り上げることはあったものの、全体として多くを書かない年になった。

私は「この体験の先」が自分に定着するまで、確信となるまで待っていた。
2022年が始まってまもなく、これを書く地盤が固まったのを実感している。

まずは「興醒めゾーン」について、それがどういうものなのか、何を指しているのかを述べていこう。興醒めゾーンという言葉自体、私の表現であり、2021年10月9日のブログ記事◆「『鏡のトリックからのリタイア、IndependentとWholeness』note公開」)で登場させた。未読の方はリンク先の記事も理解の補助、導入になるはずだ。

スピリチュアリティーにおける「興醒めゾーン」

時の基準で振り返ると一年間近く、私は興醒めゾーンを経験していただろうか。これは正確にいつからと計ったのではなく、おおよそそのくらいではという感想だ。ただ、体験そのものはきっかりしていて、曖昧に「いつからかそうなっていた」という類のものではない。特定の出来事やライフイベントを指すものではないので、質的な側面において自分がそう感じるわけだが、それほど異色の体験ではある。

これは一般に「興醒め」と言うとき連想しやすい落胆とか失望、その反応に続く憂鬱などのフィーリングとはかなり異なる。
淡々としているけれど、いわゆる「ネガティブ」な感じとは違って、むしろある種の満ち足りた感じを伴うと言える。

前述の通り、興醒めゾーンの期間のものごとの表れ方、表現の「形」は各々異なるが、たとえばあなたの人生における問題の多くが消え、平和であり、何かが完成したと感じる時期になることだってある。外面的には「それは結構なことじゃないか!」と評価できる様相となるかもしれず、不満足や絶望の体験とはとても言えない。
これはあなたが「私とは何であるか(真我)」という根本を思い出した後の経験であるからだ。

しかしというか、だからこそ、自己の内では「この世界に何も期待していない」「何かをこの世界に望むこと自体、道がそれている」という確固たるAwareness(自覚・認識)が立脚しており、この点においてそれまで生きてきた姿勢とはまるで違う道に入っているのが感じられる。

――何が違うのかを明確にするため、こう説明しよう。
スピリチュアルな見方に関心がある、スピリチュアリティーに焦点をあてて生きている、などの外観をとりつつ実は「この世界という幻想の中にゴールや目的がある」と錯覚し続け、それを追っているのを自覚していない状態がある。このとき、同じヴァーチャル・ゲーム(あなたが経験する物理的現実)内の出来事や状況、変化によって一喜一憂することは変わらない。幻想からまだ「得る」ものがあると信じているのだ。

こうした前提を保持したまま、あなたが思い描く「完璧な状態」を仮に達成したとしても、それもまたヴァーチャル(あなたの見ている幻想・夢)の中での出来事であり、あなたの本当の目的は錯覚されたまま達成されない。
その後も次々と似たような目的を作っては追い求めるだろう。

私が「興醒めゾーン」と呼んでいるのは、それら全部が同じ幻想の中にあるのだとわかっており、だからこそ、この世界に自身の望みを「付属させる」ことはできない状態。だが一方で、この世界の影響から完全に出られてなどいないことも自覚している。人生はいまだ進行しているのだ。
すると、どうなるだろうか?

希望をどこに置いたらいいかわからなくなるのだ。
すっかり自分自身の内にある基準が変わっているので、かつてのようには心に何かを抱けなくなっている。以前共振していた「世界ドラマ」と同じ基準は持っていない。
けれども、私たちは何か目的に向かうようにできている。それは本来「形」を指すものではないのだが、この世界では形として理解されやすい。
そして、形にまつわる錯覚を手放してもなお、質的な目的・方向性はやはり自身に備わっていて、そちらに向かうことを希望やよろこびと感じる。

逆に言うと、そうした目的・方向性の焦点がわかりづらくなるということは「ここにいなくていい」「生きていなくてもいい」と感じることに直結する。決して積極的に自分の存在価値を否定することはないのだが、「自分はなぜここにいるのだろう」という方向感覚を失ったフィーリングが生じる可能性はある。

このヴァーチャル劇の配役(名前を持つ個人の私)をどう使えばいいのか? 
なぜ、未だこの劇(地球世界の体験)を上映しているのか? 
ひとつの「私(真我)」としてのここでの狙いは何なのか?

こうした問いへの答えを「ただあるがまま」とか「体験することを体験していく」「今を生きる」などの言葉で結論づけるケースもあるが、ある部分でそれは姿勢として正しいものの、ある部分ではごまかしに逃避していると言える場合もある。
特に、内心は自己の無力さを感じており、その感覚・リアルさを残したままで自分自身にそれらの言葉を言い聞かせている場合がそうだ。それら逃避に無縁なあり方、区別については、昨年2021年の記事◆「鏡のトリックからのリタイア、IndependentとWholeness」や、★創造のマスターとして生きる★マガジン内の内容を参考にしてほしい。

このように、「幻想によって自分を満たせるという錯覚を希望として抱くには遠くまで来すぎたが、かといってそれ以外の目的への確信は明瞭になっていない」状態が、私の言う「興醒めゾーン」なのだ。
かつては人生の目的たりえた数々の「この世界の概念に属するドラマ」には(そこに得たいものがないので)興醒めている。しかし、未だ進行している人生上に新たな「興」を見出したいという思いももはや無い。だから、なぜ自分がこの現在を経験しているのかがわからない。

繰り返すが、「興醒めゾーン」の状態に伴う感覚は、はっきりとした快でも不快でもなく穏やかであると言える。自分は創造者であることを理解した後の一見満ち足りた感覚の傍らで、自ら幻想にまだ細い糸を垂らしていることを自覚するのだ。
この期間を過ごすうち、徐々に自己は、これをも切り上げた先に何かがあるということを時間をかけてあなたにわからせてくれる。ただ、その時点ではまだあなた自身が胸のどこかで細い糸を「切り上げたくない」と思っているのだ。
その間、この世界内にある目的にはもう自身を紐づけできないという点での「無の感覚」が否めないかもしれないが、あなたの内にかすかに「この先を見てみたい」という好奇心があり、その好奇心がずっと優しくあなたの手を引き続けるだろう。

興醒めゾーンの先にあるもの【この世界ゲームの目的】

ここからは、
■興醒めゾーンの先にあるものと、目的に照準の定まった状態
■まさに興醒めゾーンの経験のさなかにある人や、これからその経験に入りそうだという人へ、その間何があなたを支え得るかなど

に焦点をあて、私の実体験を元に伝える。

まず、こうしたすべてを言葉に限定するのは難しいと思いながらも、近い語で表すなら「目的」についてだが、興醒めゾーンを抜けて私がはっきりと、すっきりと認識した「人生という経験(この世界ゲーム)の目的」は以下の通りだ。

これこそ、一般的には「衝撃」や「興醒め」になる可能性があるし、普通の状態なら「分離を信じているエゴ」は反発する。あなたの一部がこれを受け入れることはしないようにと引き止めても不思議はない。
実際、私の中にも細い糸として表現したようにこれ以外の目的を見出す発想や、折り合いがつききれなかった部分、未練のような感情があって、だからこそ興醒めゾーンの期間を経たということが今ならわかるが、それらはきれいに溶け去っていった。
目的は、シンプルに、こんな風に言い表せる。

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