生物を精霊と見る・アニマルコミュニケーションの新段階

自分の心に忠実に生きたら、世の中からつまはじきにされるんじゃないか、望まない形でアウトサイダーになるんじゃないかという恐れを持ったことはないだろうか。
私はスピリチュアルな仕事をする中で、そんな恐れと向き合ってきた経験が度々ある。
今ではもう、そうした恐れは残っていない……と言いたいところだが、まだひとつあったことが最近わかった。

あなたの情熱に従って生きていると、「不要になったお荷物」を手放す機会が必ず訪れる。
自分を制限してきた恐れを直視し、自らそれを採用しない決断をするのだ。
その先には、思いがけない喜びと、これまで見えていなかった広大な世界がある。

私がこれから焦点を当ててお話しする具体的トピックに限定せずとも、人生において「自分の情熱を貫いても大丈夫なんだろうか」と恐れたり悩んだりしている人に、この記事を捧げる。
「目的と自由のパラドックス【魂の示す道】」同様、あなた自身のケースに応用してヒントにしていただけるだろう。
また、癒しの源、私たち全存在に共通のひとつのヴィジョンに興味がある方にもこの記事を読んでほしい。
なぜなら、私がここで本質的に伝えたいのは、特定の個人の、特定の話ではないからである。
そう、This goes out to 「魂の示す道を恐れで遮ることなく歩みたい方」「ひとつのヴィジョンに戻りたい方」。

野生生物とのコミュニケーションを妨げていた恐れ、私の場合

私に残っていた恐れ。
それは何だったかというと、現在では「アニマル・コミュニケーション」という呼び名で多くの人が知るようになった、人間以外の生物とテレパシーでコミュニケートすることにまつわるものだった。
ちなみに私は自分によりしっくりくるので「異種間コミュニケーション」と呼ぶこともある。
私の言うそれは、いわゆるトレーナーのように生物の習性を理解しボディーランゲージ等でコミュニケートすることではなく、テレパシーによるコミュニケーションを指している(ゆえに、コミュニケートする相手である生物が目の前にいなくても、行える)。

これについての「ある恐れ」が完全にクリアーになっていないことは自分で知っていた。それでも直接の弊害はないように思えたし、妥協できる範囲で折り合いをつけてきた。

私は、「この概念を受け入れる人の前でだけ、アニマルコミュニケーションの話をする。自分の本当の想いを示す」という姿勢に徹してきたのだ。
相手がどういう考えを持っているかわからない状況や、明らかにその概念を受け入れていない人の前では、一切そういった話は持ち出さないことにしていた。
生物とコミュニケートしている状況を気づかれないようにするか、後で自分がひとりになったときにコミュニケートし直す場合もあった。

その一方で、異種間コミュニケーションは私の人生になくすことのできない要素であり、大切だった。
だからこそ、自分の教える講座、特にテレパシー講座の上級カリキュラムではアニマルコミュニケーションに力を入れたし、一緒に暮らしている動物とコミュニケーションを深めたい方を対象に、アニマルコミュニケーションの個人セッションも行っていたのだ。
こういう活動のとき、恐れは介入しない。
自ら関心を持って参加し、学ぼうとしている人たちと関わっているからだ。

私の恐れは、現代社会において一般的な観念に従っている世界、人間以外の生物には本能はあるが心はないという考え方をしている人たちの前で、自分のあり方を貫くことに対して生じていた。
それは見かけ上、「他者の信じていることを尊重する」、押しつけがましくない姿勢に見えなくもないが、動機が自分を守るためならば、恐れを前提とした防御に違いない。自分で自分を遮る障壁なのだ。

このことは、私が定期開催の講座や個人セッションを停止して、書くことを中心とするようになった昨年からの流れの中で、これまで以上に野生生物へ関心を向けるようになったためにはっきりと顕在化した。

野生生物を見つめながら浮き彫りになってくるのは、自分の感じていることに忠実になればなるほど、それまで属してきた社会の常識からは離れていくということだった。

一口に「生物とのコミュニケーション」と言っても、私がこれまで体験してきたことと、今私がしていることの間には違いがある。
人間と暮らしている動物とのコミュニケーションでは、何らかの形で、必ず人間と関わる。
この点で、アニマルコミュニケーションを信じない人が世の中にいたとしても、人間社会に「含まれる」活動としてこれを見つめることができ、明らかに人間社会の中での「居場所」があると言える。

一方で、自然の中で生息している野生生物とのコミュニケーションの場合はどうだろう。
もし、農業などで作物を食べる虫とコミュニケートすることが目的に据えられたら、それは人間が関わっている中での活動になるが、そうではなくただ野生の生物とコミュニケートしている分には、自分以外の人間を巻き込むことがない。
純粋に、私とその生物との間だけでの体験だ。

目的を人間に置かず、ひたすら自然霊と向き合うこと。そこに私は惹かれると同時に、恐れてもいた。
本当にこの現実に慣れ親しんでしまったら、これまでしてきたスピリチュアリティーを主軸とする活動や、人間と一緒に暮らす動物とのアニマルコミュニケーション以上にますます「私が経験してきた人間社会のスタンダード」から外れていくことになる。
望まない形でアウトサイダーになるのではないかと思ったのだった。

葛藤しているとき、そのどちらも幻想

けれども、ブレイクスルーがあった後の今になると、それは単に「私の決断の問題」だったのだとわかる。
私たちは自分の恐れの通りの現実を、見ることも経験することもできるが、自分でそれを作っていることを認めなければならない。

葛藤しているとき、そのどちらも真実ではない。
それは「恐れを元にした幻想と幻想」の対立なのだ。

最近の私に起きた意識変化、霊的次元での体験、夢に現れる象徴などすべてを総合して今、幻想を幻想だと認め、undoできたことがわかる。

実はこの話は、最近の記事、
「真の動機はこの世にない【霊的存在としてのチームワーク】」や、
「アシナガバチのプチ予知夢、奇妙な植物合宿【夢と現実はひとつ】」と繋がっている。
それどころか、8月初頭の◆「問題を作りたがる癖を手放し、真の自己の道を歩む」で描写した猫の夢の「続きの展開」が、このブレイクスルーの後にもたらされたのだった!

霊的次元で起きたことや夢の内容は、象徴を通して語りかける。
後になってからもっと深い意味が明らかになることはよくある。

それらの夢と理解した内容については、記事後半でお伝えする。

心に残していた二重の視点

さて、私は、アニマルコミュニケーション、特に人間の生活を介入させない野生生物とのコミュニケーションについて、以下のように思っていた自分を発見した。

もし、人間以外の生物とコミュニケートすることを日常から「公然と」発言したら(こうした私のnoteの記事を、自ら興味を持って読むような人は別として)、きっと、社会的にはおかしな人だと思われる。
夢見がちな人、幼稚な人、現実を見ない人、悪くすれば「嘘つき」とすら、思われるかもしれない。

私自身、アニマルコミュニケーションをしている他者に対してそんなことを思っているわけではないのに、自分のこととなるとこの恐れが出てきた。

だから臨機応変に隠さなければならない。周囲に警戒して、自分の真実を堂々と前面に出して生きるわけにはいかないのだった。

この観点から振り返ると、家族に対してですら(私の思想を隠してはいないものの)、こうした概念を信じていない相手の前では、あえて生物とコミュニケートしていることを明らかにしたり、私の感じている内容を伝えたりはしないよう注意を払ってきた。
(その後、家族との様子を描写した記事は◆「秋の自然と家族【異なる性質の人もあなたを助けてくれている】」をどうぞ。)
つまりは、「二重生活」に近い部分が自分の中にあったのだ。

私は、「わからない」という態度には、「わかりたくない、わかろうとすることもしたくない」積極的な否定が含まれていることもあると感じてきた。
わかりたくないと感じている人の現実に、他の概念を持ち込んで、わざわざ挑む必要がどこにある?
でも一方で、私が日頃から自分の感じていることを公言して生きたなら、私はただ自分を生きるだけでその人たちと対立することになるのではないか。

――このような恐れを信じると、「自分を生きられないのは他の人のせい、世界のせい」になる。
本当は自分がその見方を選んでいるのだから、恐れから、両方の立場に足を置くことになる。
つまり、「少しは常識的、一般的な見方をする」自分を残しておこうとするのだ。
私の例だったら、たとえば野生生物の一部とはうまくコミュニケートでき、一部とはそれが実現しないというように、自分がどちらの立場でもいられるように余地を残していたのだった。

私自身が自分の視点を分裂させ、ひとつのヴィジョンではなく、この世界の見方を採用し続けていたのだ。

それでも、私の本当の気持ちや情熱は消えずに高まっていき、それに従っていったので、私の内の力関係がとうとう変化した。
「真の動機はこの世にない【霊的存在としてのチームワーク】」の記事内でふれた通り、霊的存在としてひとつのヴィジョンで生きることに向かって融合が進んでいるのを知った。

それは私に幅広い刷新の感覚をもたらしたが、その気づきのひとつとして、地球の様々な生物を「精霊としてしか見ない決意」があった。

形に焦点を合わせるのではなく、存在に焦点を合わせるとどうなるか

私たちは皆、同じ霊的存在だ。
生きとし生けるものすべてがそうだ。

けれども、物質世界では「形」があり、形に焦点を合わせれば、それぞれが分離して生きる個々の異なる存在に見える。

この仕組みをいくら頭で理解していても、自分がすでに採用しているものの見方を手放さない限り、「ひとつのヴィジョン」は現れない。

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