この世に興味が薄れたら・魂はチャレンジが好き

日常的に心が平和で、様々な執着もなくなると、問題はひとりでに解決し、自分の現実にこれといった荒波が立たなくなる――これ自体は歓迎する人も多くいると思うけど、次の部分はどうだろう。
さらに、それら結果をもたらした土台として、「私」とは何か、物理的現実とは何なのかということへの理解と自覚が揺らがないほど確かなものになると、この世への興味はかつてより薄れるかもしれない。

このことはひとつの話として聞いてもらうことにして、誰もがそうなるんだと思う必要はない。と同時に、あなたがまさにそのような経験をするとしても、大丈夫なのだと伝えよう。後述するが、あなたが日々をこの世で生きている限りそれは本当の興味喪失ではないのだ。

この「薄れる」ということを、たとえで説明するならこういうことだ。
あなたが映画を見ているとして、映画の世界の中に入れる装置をつけた。
A. 映画を見ているあなたは、映画内の体験に夢中になるあまり、自分は映画の中にいる人物なのだと思い込んでしまった。映画の外があり、そこに自分はいるということを忘れたのだ。したがって、映画の中の出来事はあなたの存在そのものを左右すると信じ、それらに必死で対処する。
B. あなたは映画を見ている者だとわかっているまま、映画の中の体験をしている。あなたにとって、その体験は意義や学びや感動を生みはするものの、自分の存在を脅かすはずもない「遊び」である。

Aの立場とBの立場の違いは明らかだよね。
この点で、ここでは「興味が薄れる」という表現をしている。かつて(Aの状態)とまったく同じではいられないということだ。

ところで、「悟り」の概念は様々で、人によってそれをどう定義しているかが異なるのだが、中にはある段階の後に「人々を救うため、あえてこの世界にとどまる」段階が続くという描写がなされることもある。
本人がゲーム終了しようとしても、「そうおっしゃらずに」と引き留める係がいたり、もしくは、そのように満足してしまった段階をさらに先へ進めると、結局はここに留まったまま人々と交わることを本人が自ずと選んだり、という具合にだ。

果たして、これは万人にとって本当だろうか。
人間の善悪を元にした利他の観念からすれば、それが美しい手本なのかもしれないが、私自身は妙にズレのある概念だなと感じてきた。「誰もが」そうすべき、そうなるべきだというのでなければ、そのようなコースを選ぶこと自体はあってもいいのだが。

さらに正確に言えば、地球を救う、世界を救う、他者を救済するなどの概念は「私」が分離している状態でしか持つことはできない。
ひとつの私であるとき、それらは感覚として成り立たない。

ひとつの私であることをわかっている上で、たくさんの私という経験をしている「魂」はそれぞれ、自分の興味に忠実なのだ。
自分の興味とはすなわち、ひとつの私が「多」になることで多方面に発生、経験していく興味なので、それに忠実でなくなったら、多の視点を持つ意味を否定することになってしまう。

つまり、あなたが真の自己とひとつの状態にあるのなら、自身の内から湧いてくる興味は外側に見えるどこかの誰かや、何かと「まったく同じ」ということはありえないのだ。よく似たものはあるかもしれないが、何から何まで同じ感性でということはない。

これを踏まえて、あなたがこの世を経験しているにも関わらず、「この世に興味がなくなった」感じがするとき、何が起きているかを見つめてみよう。

この世に興味が持てないように感じるとき

すでに説明した通り、あなたの自己認識が完全に変わったために、この世への興味が薄れるということはけっこうありがちだ。

しかし、いかにそのように感じようとも、あなたが日々この世で生きているなら、あなたの魂はまだ「ここで経験したいことがある」と言っている。

ただし、それはかつてのような「思い入れ」「執着」などの感情を伴わない興味であるに違いない。情熱はあっても、「何が何でも」という燃え方ではなく、黙々と作品を集中して創っていくような静かなものかもしれない。

場合によっちゃ、そこに他者を巻き込む必要すら感じないかもしれないし、既存のモデル(型)やストーリーのどれもが当てはまらないかもしれないのだ。

そうであるにも関わらず、相変わらず「外」に定義を求めたり、自己の外側を見つめることで自分に当てはまるもの、フィットするものを探しているとどうなると思う?
興味の対象を外側からピックアップする習慣がかつてのあなたにあって、それをいまだに採用していたら?

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