ここからは、二人で【夢の外からの導き手】

夢の中にいると信じて夢の世界を体験している私たちは、夢の「外」からの導き手がいなければ、迷子になってしまう――だからあなたは導き手と二人で歩む必要がある。
「二人」は、象徴的に捉えてもらってもかまわないし、そのまま二人と捉えてもらってもかまわない。つまり、自己を二ヶ所に置いているという感覚でもいいし、ひとつに繋がっている個々の存在と捉えてもいい。あなたのお好きなように。

ここで言う「夢」とは、あなたの体験している物理的な現実世界のことだ。

ここのところ記事で連続的に伝えていた、真実を「実感する度合い」の変化が自分に起こってから、その発見は本当に素晴らしくて表現したいけれども、どこまで言葉で伝えられるのかを疑問に思っていた。
前々回◆「自分の中の分断をなくすこと【世界・他者との関係】」で、字面だけ読めばこれまで私が伝えてきたこととの違いを感じない可能性もあると書いたのだが、そもそも今私が教えたいことは、ちっとも秘密でも秘儀でもなく、世界中に、そして古来から、そういった知識はあふれている。

その「実践のポイント」だけをまとめて、いかにも実用しやすそうな「これだけ守れば万全」という法則として提示してみせることも可能だろう。
けれども、多くの人がわかっている通り、ただ法則を学んで「行けるところまで行く」のには限界がある。
そのように与えられた「ルール」を守ったところで、あなたの中で自分が「なぜ、そうしているのか」という理由をわかっていなければ、そこに確信がなければ、まるで根無し草のような状態になるからだ。
しっかりと根を張る「基盤」の存在を認識して初めて、法則があなたの枝葉となる。この意味において、法則もまた二次的なものだ。

基盤を心から認めていなければ、すべての試みは「自分の努力次第で持続できるが、自分に強いることをやめると、力尽きて倒れる」。基盤を、普遍のものではなく「変化するもの」だと思い違いしている場合にも、同じことが言える。

私たちの基盤は変えられないものだ。
それは、「すべての源であるひとつの存在」で、人間の言葉によって様々に言い表されているが(例、神)、そこにすら人間は色々な投影を行う。
投影を行うということは、自分自身の基盤を汚しているということで、それを本当の意味で汚すことも、別のものにすることも決してできないのだが、明らかに自分自身の経験の中では誤解することができるということだ。

そしてその誤解は、そのままあなたの現実になる。
誤解に基づく現実。それをここでは比喩的に悪夢と呼んでいる。

分離した世界という悪夢を、本来の自分の性質にふさわしい幸福な夢に戻すためには、どうしたらいい?

悪夢の元をなす恐れを作った本人は、恐れをリアルだと思っているからこそ恐れているのであって、その状態からはその信念を解除できない。
信じているものを現実として経験する「夢の世界(この現実)」において、これは致命的だ。悪夢は現実の経験となり、より一層、その実在が体験者の心の中で信じられ、変化させる機会が作れない。

それどころか自分の恐れを覆い隠し、維持するために、悪夢を「良い夢だ」と自分に思い込ませようとするという複雑な作業まで生まれる。
何が苦しみで、何が幸福か、わからなくなってしまう。
そうして、自分の見ている夢の質を根本的に変化させる代わりに、なじんだ悪夢の中で「より良い取引」をしようとするのだ。

夢の外からの導き手

自分の作った悪夢にとらわれている私たちの救済策、命綱は、夢の「中に」自己はいないということを思い出すことで、
「これは自分の作っている夢なんだから、自分が夢主だと気づけば、変えられるよ」
ということを常に「覚えている者」が知らせ、導き続けることである。

覚えている者は、あなたの見ている夢の状況と、夢の元であるあなたの心の中身を知っているが、だからといって自分も一緒に夢のリアリティーに入り込んではいない。
あなたは夢が上映されているスクリーンの「中に」自分がいると思い込んでしまっただけで、いまだに「夢を見ている者(夢主)」であり、スクリーンの「外に」いる。
覚えている者の視点からは、あなたは今も安全な場所で映画を見ているような状態なのに、映画の中のリアリティーを自分の生きている世界だと信じ、その映画の内容を自分で選んでいることすら忘れて、映画のリアリティーに対して「無力である」と嘆いている様子が見える。
だから、覚えている者は「そうじゃないよ」と優しくあなたを諭し、あなたの本質を思い出させ、あなたの本当の心に沿った夢を完成させるよう導く。

間違ったことを信じ、間違った考えで夢を作っているあなたを訂正しつつ、あなたの見ている夢を、あなたが本来見たかった夢に戻す方法を教えているのだ。

この、夢の「外」にいる導き手(覚えている者)を、あなたが別次元の自分と捉えようが、霊的存在としてのガイドや守護天使と捉えようが、あなたの色付けによってその働きを制限しない限りは、どう解釈してもかまわない。

大切なのは、その手をとることだ。そして離さないこと。
相手は絶対にあなたから手を離すことはない。
導き手から遠ざかる「錯覚」を起こすことができるのは、その決断が可能であると信じられるのは、あなたの側だけだ。

ここからは、二人で。一致した決断による真の創造

私が近頃、「全体的な理解の中で部分的にモザイクをかけていた」ところをクリアーにして、どこもドット抜けの状態で放置せず埋めて、すべてをひと続きのものとして眺めてわかったことは、
「この世界の中に自分がいると思うことができる『自己の考え』に頼ることは、本当にやばい。なぜなら、知らなすぎる」
ということだった。
この実感!

この実感がなければ、私たちは個々の「悪夢」から抜けられないし、本当にこれを実感していなければ、あなたは逐一すべてを「内からやってくる導き手」に任せることを忘れるだろう。
「夢の中にいると思っている私」が、今何が起きているか、何をしているか
を少しは知っている、把握できていると錯覚するのだ。
そして、導き手を無視して「一人で」、自分の価値判断にのっとって何とかしようとする。

その結果どうなるかというと、

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