「I(私)」の立ち位置の念押し・それによる人生体験の違い
「私」という視点をどこに置くか、「私」とは何だと思うか、私たちのアイデンティティーにまつわる根本的な話を、これまでも講座や記事や諸活動を通して度々伝えてきた。
それでもまだ、これを言うのは、「I(私)」の置き場によってとんでもなく人生体験もその結果も違ってくるから。
私自身がこの違いを度々実感し、伝えるだけの価値がある内容だと心から思っている。
「普通に」個人としての自己を「I(私)」と感じながら生きていると、人生は現代風の表現で言えば「無理ゲー」だ。
まったくそう感じたことがないという人はおめでとう。でも、そういう人でも何かしらの苦しみや、あきらめなどが心に潜んでいる可能性はある。それをそういうものとして受け入れているというだけで。
別に、そういうものがあっちゃいけないという話ではない。
また、無感覚になれとか、感情を動かさずにいようという話でもない。
ただ、私たちの世界での現状の「普通」は、実は「異常」なんだということに気づいてもらいたい。
どんなところが異常かというと、「滅することがない者が、滅する者になりきって体験をしている」という点が。そして、その前提に付随するすべてのものの見方・感じ方が「リアル」になっているという点も。
「I(私)」をどこに置くか、自分で動かせる
ええと、そもそも、「I(私)」という感覚って自分で動かせるの?……と、疑問に思う場合があるかもしれない。
そう、私たちはしょっちゅうその感覚を動かしている。これを、自己認識のフォーカスを動かしていると言い換えてもいい。
ある人が「この体や名前を持つ個人の私」という「今の私」の感覚を確かなものだと思っていたとしても、その人も、その感覚を固定しているのでなく動かしてもいるんだということ。
たとえば他者と自分を同一視したり、特定の状況や集団、国家などと自分を同一視したり……入り込む度合の差はあるが、一緒に情緒的な反応も起こす際にはわかりやすいかもしれない。
それから、個人から離れて自己意識を広げることも日常的に行う。例を挙げると、睡眠時にはよくそうしている。
何を「私」と思うかは動かせるし、すでに普段から動かしているんだということをまずは理解してもらって、ここで念押し。
あなたは、自分を「この世界の中にいる私」だと思っていないかな?
読者の中には、はいはいその話ね! と、ぴんとくる、繰り返し学習済みの人もいるかもしれないので、今回は「I(私)の置き場の違いによる結果」のところ、人生体験がどう異なるかに特に焦点をあてながら説明する。
あなた自身の「I(私)」がどこに置かれているかをその都度判別できれば、修正することもたやすくなる。当記事の内容を日頃から実践して、自分自身で確かめてほしい。
「I(私)」の置き場による人生体験の違い
はじめに述べた通り、この世界で「普通」に思える自己認識で生きていると、この世の体験ではどうあがいても「越えられない壁」がある。
誰もに共通で、わかりやすいのが「死」。
これはただ誰もが死ぬという意味で言っているのではなく、死の概念にともなう様々な考え、発想、感じ方、そこから派生する現象を含む。
なかなかそうは認識されない傾向があるけれど、私たちの苦しみの根本原因は自己認識を誤っていることだ。
この誤り、根本原因を正さないままでどんな対策をとろうと、本質的に同じゲームをプレイしていることになる。
逆に言えば、根本の誤りさえ正せば、人生体験はまるで違ったものになる。
当然、体験の姿勢からして変わるわけだが、だからといって、先に言及したように無感覚になるとか、感情を体験しないということではない。
誤りを正す――あなた本来の立ち位置をわかりやすく説明するなら、以下の通りだ。これはたとえ話というより、ほぼこの通りに捉えてもらっていいのだが、
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