Lighter, lighter 地球の自然法則の超越

Yoyoyoyo, 聞いてよ、一周回って同じところに戻ってきた者の話を。
見える景色は以前と違うけど、「やっぱりここなのか!」と思わず、笑わずにはいられなかったよ。

地球の自然を理解していく関心のその先に、理解した上でそこから「出る」目的を据えていたなんて、自分のこととはいえ、私の表層意識では予想してなかったな。

この記事は、今年3月の記事◆「Deeper, deeper」のアンサーソング的な、発展形的な内容で、「Lighter, lighter」。
(どちらの記事も、単独で読んでもらうこともできるよ。)

「深さ」というと、「重さ」「暗さ」を一緒にイメージしてしまうことはないだろうか。深く潜れば潜るほど、重くなる、暗くなると。
それが人間の心の中であれ、物理的な世界における深さであれ。

けれども、深さと、重さや暗さはイコールじゃない。
物事があべこべに捉えられるこの世界の常識に反して、深くなればなるほど光源に近づいていく。
深層に意識を向ければ向けるほど、より軽く、軽くなっていくのだ。
「Lighter, lighter」。英語だと、Lightには「軽さ」だけでなく「明るさ」の意味もある。これもまた、この話題の意図にちょうどいい。

鳥、虫、植物、土……自然界を見て私が確認したかったこと

近頃の私は◆「野草にドキドキ・Missing Pieceの回復」で語った通り、野草や樹木にも興味が向いて勉強し始めていた。「一日一虫」が「一日一草」になる日もあった。
この流れは当然と言えて、植物を見るなら虫が関わってくる、虫を見るなら植物が関わってくるという具合に、どちらも一緒に学ぶことになるのは道理だった。

こうしていつの間にか野草、特に身近な雑草と呼ばれる植物に関心が向いたことはまさに私にとってA missing pieceの回復で、見慣れている植物のことを改めてよく知ったり、昔好きだった万葉集や百人一首にも登場する草花とそれらが結びついたりすることが、心から楽しかった。

また、かつて私はある療法のセラピストとして活動準備をしていた頃(結局セラピストでいた期間は短く、後にスピリチュアルカウンセラーになるのだが)、アロマテラピーを併用する可能性を考えて、精油の勉強をしてアロマの資格を取ったことがあった。そのときに味わった植物について学ぶ楽しさが、長い時を経て戻ってきたようだという感想も抱いた。

(ちなみに、アロマテラピーは個人個人の香りの好みもあることだし、結果として私のセッションには取り入れなかった。
今では精油は、自分が好きだったり便利だと感じたりしている3種類程度を常備しており、たとえば日常で「虫刺されの時、基材に精油を混ぜて軟膏として塗る」などの、個人のごく実用的な道具として使っている。)

そのように、色々な要素が統合された感覚をもってウキウキで野草の勉強をしていた私は、気づけば土のこと、微生物のこと、生物たちの共存のことを学んでいて、それは私が今から十年以上前から、自然栽培の本を読むことがきっかけで着目するようになったテーマなのだった。
これについては、ブログの過去記事を読んでもらうと、★日常風景・ライフスタイル★に絡めて度々話題に出しているので、詳しい説明は省く。

あれ!?  これもまた同じことか……と気づいた途端に、私は自分がこうした活動から何を求めているかを知ってしまった。
自然を知れば知るほど、「私たちって、なんて素晴らしい世界に生きているんだろう!」というよろこびと、自然への信頼の気持ちが深まっていたが、それで終わりではないと認識したのだ。

私は、自然の多様な側面から、「自然界は調和している」という事実確認をしたかった。
「鳥のおと(音)、セミのおと(音)」の最後の方で述べたように、その確信はすでに私の心の中にあり、それ以外のものの見方を(いかに現代の常識とされていようと)、もはや持たない自分になっているかを確認するためのプロセスだったのだ。

もちろん、ただ愛しい存在として、様々な生物たちに惹かれるということは今も変わらない。
それはそれとして、自然界から何を確認していたかという自分の狙いに気づくと、私が「その先に」何をしようとしているかにも気づくことになった。

そしてそれは、「やっぱりそこか!」「どうしてもそれなんだな」と、自分の内に消えずにあり続ける性質を認め、「サレンダー」せざるをえない内容だったのだ。

地球の自然法則を理解した上で、超えるのはなぜか

現代社会ではまだ、すべての生物を含んだ自然界が調和しているということを集合的な公式見解として認めてはいない。少なくとも、その認識に従って物事を見ることを全般的に実践してはいない。
人間は、自分たちが自然の一部であることを否定し、自然に敵対することも可能だと考える唯一の生物だ。それは自然への不信であり、不信を持てるのは自然の仕組みを知らないから、つまり無知や忘却からやってくる。

けれども、そんな社会の中でも自然界の調和に気づいて生きている人、その気づきに沿った生活を実践している人、他者にもその叡知を教えている人がたくさんいる。
そして、そうした人たちは増えつつある。

私が野鳥や虫や野草に興味を持って知ったのは、自然を愛し、理解しようとする大勢の素晴らしい人たちの存在だった。
自然から調和を学び、自分たちもまたその法則に則って生きることを、独自に工夫し表現する人たちの姿だった。

そこにもまた各々の個性があって、創造性が活かされる楽しい世界だ。私はそうした人たちを心から応援しているし、未来は希望に満ちていると思う。

それを踏まえて、私が今「地球の自然法則を超える」話をするのは、地球の自然法則を否定するためではなく、私たちが「地球におさまらない存在」であることを思い出すためだ。
これを「意識の拡大」と言ってもいい。

私たちは、地球を軸にして生きる存在ではない。
物理宇宙に生きる存在でもない。

今は、地球世界という夢を舞台にしているので、地球の自然法則を学ぶことは参加者全員が一度は学ぶ教科だと言うことができるだろう。
中でも、調和の法則は、私たち全生物に共通の「源」の性質を反映しているので大切である。

それでは、なぜ、その理解で終わりにはならないのか。
簡単に言えば、私たちは物質世界に依っている存在ではないからだ。
それを創造している者なのだ。

これを明確に理解してもらうために、誰もが知っているイエス・キリストについての話を例に挙げよう。

聖書で語られているイエスのストーリーの中で極めて重要なこと

私は以前からお伝えしているが、現在伝えられているイエスのストーリー、聖書で記されていることの中には歪みがある。
(もちろん、正しく理解されれば現代にも役立つ金言が多くある。)
しかし、その中であっても、極めて重要な点が2つある。

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