主語はすべて「私」。存在の価値と調和

付近のキンモクセイが、甘ぁく漂っていい香り。家の中に入ってくる空気がぜんぶ、見事にキンモクセイ色に染まっている。そしてバックミュージックは虫さんたちの澄んだ音だよ。

自然界では、どんなものも「存在しているだけで」価値があるということが明白に思える。そこに人間の考えによる価値判断を挟まなければ。

私たち人間は、Be(在る)よりもDo(する)に価値を見出そうとしがちだ。
――何を「する」ことができるかな? どう「やれば」いいのかな?
この場合の「Do」は、あなたがあなたでいると自然と為している物事を指すのではなく、不足感を元に、取ってつけたように「何かをやらなくちゃ!」「もっと、こんな風にならなければ!」と、考えた結果のことだ。

形として見えるものに確証を置くのが当たり前になっていて、見える形で「表現」できていない限り、心の中で何をしていても「ないのと同じだ」と決め付ける誤解もここに加わっている。
でも、それは本当かな?

あなたの内で感じていること、思っていることは、あなたに影響を及ぼす。たとえそれが「外に表現」されなくたって、そうだ。

たとえば、あなたが誰かや何かに対して思っていることがあるとしよう。
あなたはそれを、自分以外のある人や物事に対する感想だと信じているかもしれないが、それは一体、誰に影響を与えるだろうか?
――思いの発信源である、あなた自身だ。

あなたのものの見方はすべて「外」に向けているようでいて、自分に影響を及ぼしているし、それ自体、あなた自身の「一側面」に対して起こった感想なのだ。
えぇー、でも、私は自分ではなく他者や世界に対して思ったり感じたりしただけなのに……と考えそうになったら、思い出そう。
あなたが鏡を見ているとしたら、そしてそれが鏡であるということを忘れたとしたら、あなたは鏡の中の自分の様子を「誰か他の人である」とすっかり信じてしまうということを。

それはあなたの結果になる

このたとえが真理を表していると気づくと、あなたの内は常に多くのことをあなたに伝えてくれていると理解できるだろう。
あなたの内で起こるつぶやきや、なにげない反応はすべて、「自分が自分をどう思っているか」という情報を提供しているのだ。

つまり、こういうことだ――あたかも「たくさんのもの、たくさんの異なる人たち」が自分の周りをぐるりと取り囲んでいる世界に生きていると思っていたけど、それらは全部、ほかでもない「私自身だった」。

これもまたひとつのたとえとして、以下のように想像してみよう。
あなたという存在の持つ要素があまりにもたくさんあって、どこまでも壮大なのだとしたら、「ひとつのものを、無数の角度から」映し出す多数の鏡によって、あなたは様々な異なる視点から自分を知り、尽きることのない発見をし続けることとなる。

たったひとつのものを無限にたくさんの異なるバージョンで経験することができるこのヴィジョンは、ちょうど細密な幾何学模様の曼陀羅のようなのだ。
何かが先にあって、その後に何かが誕生するのではない。
すべては同時に起きていて、「時の流れ」というのも存在していない。

この地上では実在するように見える「直線的に進む時間軸上の因果の法則」は幻想であって、あなたが信じなくなれば機能しない。
因果の法則とは、あなたの「内」にあるものが「外」に現れるという作用のことだけだ。

あなたはあなたの現実のクリエイターであり、あなたの内で何をしているかがあなたの外に現れる。あなたの世界になる。
では、あなたが「自分とは何か」ということを誤解していて、自分に対する誤った価値判断をしていたら、どうなるだろう?

ここから先は

1,442字

¥ 900

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?