飛騨俊吾

いい風景に出会ったとき、それを借景したいがため物語を書き始めます。ストーリーが先ではな…

飛騨俊吾

いい風景に出会ったとき、それを借景したいがため物語を書き始めます。ストーリーが先ではないなあ…。 ◇文学賞受賞歴 ・「エンジェルボール」第6回 広島本大賞 ・「小夏と麦の物語」第16回 酒飲み書店員大賞

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【短編小説】 素敵な雨のはずなのに 最終話

〝柊さん  いろいろ考えた末に今こうして便箋に向かっています。ですが、どう書き出せばいいのか悩んでしまいます。私は物語でもいつも書き出しに苦労していましたから。  先に結論を書きます。私は柊さんに乳房を失ってしまった私を見せたくありませんでした。  物好きなあなたは、歳を取って張りもない私の乳房なんかを可愛くて仕方ないよと言って、いつも何よりも愛してくれましたよね。私の胸に頬ずりしているそんなあなたのことが、私も愛しくて仕方ありませんでした。そして本当に幸福でした。  いつ

    • 【短編小説】 素敵な雨のはずなのに 12

       しめやかに告別式が執り行われる中、柊は考えていた。  結局、自分は椰哉子から繋がりを断ちたいと宣告された男というのが事実であって、なのに彼女が永遠に口を閉じてしまった今、その胸の裡を自分に都合よく解釈するのは恥ずべきことだった。そう、言わば自分は招かれざる弔問客なのだ。  出棺のときを迎えた。もう一度柩を覗き、椰哉子の頬の横にガーベラの花を添えた。ここまでだった。人生のほんのひととき、共にあったこの美しい存在がこの世界から物理的に消滅してしまうところへは到底立ち会えそうにな

      • 【短編小説】 素敵な雨のはずなのに 11

        5  数日後、柊は品川に向かう山手線の中で中吊り広告を見て衝撃を受けた。 〝堀川文学賞作家 敷島椰哉子、末期ガンで授賞式を欠席〟  品川駅に着くと真っ先に駅売店で週刊誌を求め、そして下りのこだまに乗った。  席に着くやバッグを隣の席に投げ出して急いでページをめくる。鼓動は乱れ、額に血の気が失せていくのを感じながら。  二年前の夏に左の乳房を切除して、今また再発した。だから授賞式に来れなかったとあった。   「二年前の夏……」  そこには抗がん剤の副作用で髪を失ってしまったの

        • 【短編小説】 素敵な雨のはずなのに 10

          4  そして迎えた堀川文学賞授賞式の朝。 「よし、減量成功!」  体重計に乗るとぴったり五キロ痩せていた。  あれから毎日ランチを抜いた。生憎運動する時間はなかったから食事制限するしかなかった。元より朝は珈琲一杯だけだったから一日一食。ランチを抜くというのは口で言うのは簡単だが、食欲という生きるための生理的な欲求を封印することだから実はかなりしんどい。けれどハッキリとした短期的な目標があると頑張れるものだった。  紺のジャケットに白いボタンダウンとベージュのチノ。ベルトの穴

        【短編小説】 素敵な雨のはずなのに 最終話

          【短編小説】 素敵な雨のはずなのに 9

           麻布十番のバーを出た柊は七月の夜の匂いを吸い込みながら、暗闇坂から狐坂とゆっくり歩いてマンションへ向かった。坂だらけのこの街を椰哉子はとても気に入っていて、二人でよく歩いたものだった。  ——品川駅で椰哉子を見送ってから、ふた月ほど経った初夏。  様子伺いの電話を掛けると最初のうちいくらかよそよそしさを感じたが、いつもの心地よい声で言われた。 『そうそう、早坂さん、次の作品の取材をしに行きたいのですが、もしお時間あったら付き合っていただけませんか?』  車は持っていないが

          【短編小説】 素敵な雨のはずなのに 9

          【短編小説】 素敵な雨のはずなのに 8

          ※ ※ ※  村上と別れた柊は赤レンガ通りでタクシーを拾って、麻布十番で降りた。  酒を控えていたはずが久々に飲むと簡単に箍が外れてしまって、なんとなくもう少しだけ飲みたい気分だった。  いきつけのバーに立ち寄るとスツールに腰を下ろして、懐かしい香りを愉しみたくてゴッドファーザーを注文した。  ——敷島椰哉子という作家の存在を知ったのは九年前、三十四歳のときだった。  東京文学新人賞を受賞したデビュー作の「新しい関係について」を読んで、なんて涼しい文章を書くのだろうと感心

          【短編小説】 素敵な雨のはずなのに 8

          【短編小説】 素敵な雨のはずなのに 7

          3 「それじゃあ、敷島椰哉子先生の堀川文学賞受賞に乾杯!!」 「お、乾杯!」  混雑する店内に生ビールの中ジョッキがガチッと音を立てた。  新橋四丁目にあるやきとん屋は営業部村上の行きつけ。長い付き合いの村上と柊は忘れない程度に連れ立って飲みに出た。カウンター席で横並びの村上は一気に空けたジョッキを置きながら、 「早坂、おまえからも先生に連絡はしたんだろ?」  柊は軽くうなずいた。 「ひとまずメールでね。忙しいみたいで、まだ返信は貰えていないよ」  必ず来ると思っていた質問

          【短編小説】 素敵な雨のはずなのに 7

          【短編小説】 素敵な雨のはずなのに 6

          ※ ※ ※  タクシーを降りて南麻布のマンションに帰った柊は、集合ポストを確認してからエレベーターのボタンを押した。四階の部屋に帰り着くといつも通り真っ先にシャワーを浴びる。  最近すっかり白髪の増えたビジネスツーブロックをガシガシ洗いながら考えていた。  堀川文学賞の授賞式は一ヶ月後。壇上でスポットライトを浴びる椰哉子の姿を会場の端から見届けるのだ。寡作で普段からマスコミにはほとんど顔を出さない彼女だった。どんな風に変わっただろうか。  脱衣場から出るとキッチンへ向かい、

          【短編小説】 素敵な雨のはずなのに 6

          【短編小説】 素敵な雨のはずなのに 5

           二宮駅から上野東京ライン上りの最終電車に乗った。  これは悪夢ではないのかと自分に問いかけながら、誰も乗っていない車両の窓辺に座って不満と悲しみで遣る方ない思いを送信した。すると程なく返信が届いた。そこには、二人が一緒にいると互いに甘えてしまう、私たちはお互いにまだ成長できると思う、と初めて理由らしきことが綴られていた。車窓に頭を凭れかけて呆然とつぶやいた。 「なんだよ、いつから……そんな風に思っていたんだよ?」  作家と編集者——自然に惹かれ合うように、二人同時に恋に堕ち

          【短編小説】 素敵な雨のはずなのに 5

          【短編小説】 素敵な雨のはずなのに 4

          2  午前一時前。二橋の交差点から仙台坂に入ったタクシーの中で、柊はスマートフォンに残る古いメッセージを辿っていた。  ——二年前の六月のある朝。突然不可解なメッセージが届いた。 〝私たちはこのまま一緒にいると二人ともダメになると思いました。だから今日で終わりにしましょう〟  何の冗談かと首を傾げながら電話を掛けたが、いくら鳴らしても通じなかった。 〝何かあったの? 冗談にしては結構キツいんだけど〟  そう送ったメッセージも既読にならなかった。  気になって仕方なかったが

          【短編小説】 素敵な雨のはずなのに 4

          【短編小説】 素敵な雨のはずなのに 3

           高層ビルが日比谷通りに長い影を落とす午後六時半過ぎ、柊は港区三田の日本黎明出版社に戻った。  自社ビルの三階にある文芸第二編集局が一番賑やかになる時間だった。慌ただしいオフィスの中、デスクに座って留守中に溜まったメールをチェックしていると、 「早坂!」  後ろから声が掛かった。 「今年の堀川文学賞、決まったな」  振り返ると同期入社の営業副部長、村上宏和だった。柊はハッとして卓上カレンダーを見た。 「そっか、今日だった……」  ひと月前の最終候補三作品が発表された日、今日の

          【短編小説】 素敵な雨のはずなのに 3

          【短編小説】 素敵な雨のはずなのに 2

           JR熱海駅に降り立つとすっかり雲が消え、夏空が広がっていた。  柊は駅前広場の日常的な風景を、空の青がしっかり映り込むようにスマホで一枚撮ってから歩き始めた。  ガードを潜ってすぐ裏手の桃山坂を登り始める。まずは線路沿いの道を新幹線ホームの屋根を越えるまで一気に上り詰める。これだけでもしんどいが坂はそこからがいよいよ本番といっていい。幅員の狭いヘアピンをひとつ、またひとつ。  熱海は坂ばかりの町だ。作家先生の住むマンションは地図で見る限り駅から目と鼻の先だったが、その間には

          【短編小説】 素敵な雨のはずなのに 2

          【短編小説】 素敵な雨のはずなのに 1

          1  となりの有栖川宮記念公園の森から不如帰の啼く声が聞こえるのは決まって午前三時過ぎのことだった。  大御所と呼ばれる作家先生の万年筆書きの原稿をチェックしていた早坂柊は、大あくびをすると丸眼鏡を外して目薬をさした。瞬きながら目を向けた窓に夜明けの気配はまだなかった。  再び原稿用紙に目を向けると、またひとつ不如帰が啼いた。  どことなく切なげなその声が夜気に乗って網戸から初めて入ってきたのは今から四年前のこの季節、やはり今くらいの時刻だった。そのとき目を通していたのが椰

          【短編小説】 素敵な雨のはずなのに 1