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【短編小説】 素敵な雨のはずなのに 10

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 そして迎えた堀川文学賞授賞式の朝。
「よし、減量成功!」
 体重計に乗るとぴったり五キロ痩せていた。
 あれから毎日ランチを抜いた。生憎運動する時間はなかったから食事制限するしかなかった。元より朝は珈琲一杯だけだったから一日一食。ランチを抜くというのは口で言うのは簡単だが、食欲という生きるための生理的な欲求を封印することだから実はかなりしんどい。けれどハッキリとした短期的な目標があると頑張れるものだった。
 紺のジャケットに白いボタンダウンとベージュのチノ。ベルトの穴の位置をしっかりひとつ絞った。そして靴はサドルシューズを履いて出かけた。
 ——一番最初に椰哉子が来社した日。
『ところで早坂さん、サドルシューズなんて履くんですね』
『え……?』
『私も高校生の頃、リーガルのサドルシューズが欲しくて。アルバイトで貯めたお金を持って電車に乗って、広島のリーガルショップまで行って買ったんです。私の住んでいた町にはリーガルショップなんてなかったから』
 小さな会議室で打ち合わせをして、玄関先まで送りに出たときの会話だった。それは最初に椰哉子の口から出た、柊個人に対する興味の言葉だった。柊は自分のシューズに目を落としてから、急いで椰哉子の顔を見た。
『そ、そうだったんですか』
『私のはブラウンじゃなくて、ブラックでしたけど』
 まるで自分の中の理想をそのまま形にしたような椰哉子のルックスに、会った瞬間から過度に緊張していた柊はそのとき初めて見た彼女の高校生のような笑顔にホッとすると同時に、この女性作家の作品をなんとか自らの手で広く世に知らしめたいと思った。

※ ※ ※

 帝国ホテルで行われた授賞式の会場。柊は後方の席に座っていた。
 前方のステージの上には「第九十九回 堀川文学賞 授賞式」と書かれた看板が堂々と掲げられていた。授賞式と記者会見が終わった後で隣の部屋に用意されたパーティー会場へ移動、そこで立食パーティーが催される。椰哉子に接近するチャンスは十二分にあるだろう。
 決して侵入者でも招かれざる客でもなかった。なのにどういう訳だか柊は今になって緊張して鼓動が落ち着かなかった。
 いったいどんな格好で椰哉子は入ってくるのだろうか。彼女がここまで多くのマスコミの前に姿を現すのはおそらく初めてのはず。きっとここにいる誰もが椰哉子の気品に溢れた微笑みに衝撃を受けるに違いない。
 ——二人で神戸を旅したとき。
『椰哉ちゃんはこんなに美人なんだから、もう少し表に出れば今よりずっとファンが増えるんだろうなあ、きっと』
 旧居留地きゅうきょりゅうちにある老舗のバーカウンターに並びながら言うと、椰哉子はいくらか呆れた表情で笑った。
『柊さん。それは編集者の言葉としてはバッテンよ』
『え?』
『あなた、いつか言ったじゃない。小説の素晴らしさは読者が自由自在にイマジネーションを膨らませることができるところだって』
 フローズンモヒートのカクテルグラスを見つめながら、
『人間はどうしょもない生き物だけど、この星で唯一想像力を備えた生き物なんだって。そしてその想像力を育むのが文芸なんだって。そんな大層なものに一度きりの人生で作り手として関わることができたことは奇跡じゃないですかって』
『……そんな話、したっけ?』
 とぼけると椰哉子はクスッと笑って言った。
『日本黎明さんでの二冊目の「空の色、海の色、風の色」を出してしばらくした頃よ。ああ、この人、売れない作家を慰めてくれてるんだなあって少し傷つきつつ納得したし……嬉しかったのよ』
 柊は黙ってギムレットを口に含んだ。
『だ、か、ら……』
 椰哉子は白い肘で柊の肘を小突いて笑った。
『作者が表に顔なんか出すのは、読者の想像の妨げ以外の何物でもないわ』
 それがプラスとマイナスのどちらに作用するかはその人によるよ、と言いかけた言葉を冷たい酒と一緒に飲み込んだ。
 そもそも商業的な成功というものに椰哉子は頓着がない様子だった。
 柊は自分の関わった三作の初版部数が、作品が出るたび減っていくことを申し訳なく感じてしまったが当の椰哉子は、つたない作品を世に出していただいて心から感謝していますとだけ言った。そんな椰哉子がこうして堀川文学賞という栄誉を手にした。これによって彼女の中で何か化学反応が起こるのだろうか? 柊はステージを見遣りながら、小さくゆっくり首を振る。
「変わらないんだろな、椰哉ちゃんは……」 
 そう、きっと彼女は変わらない。これからも彼女のもつ美しい言葉で、読者の心にスーッと染みてゆく物語をこれまでのペースで紡いでいくに違いない。
 会場に多くの人が集まっていた。狭い業界、顔見知りもチラホラ見かけて挨拶を交わしたり。そして柊は腕時計を見た。授賞式が始まるまであと一分。壁の向こうに彼女がいると思うと一層胸が高鳴る。捨てられた自分がなんでここまで緊張しているのかと、その哀れさに薄ら可笑しくなったが口角さえぎこちなくなっている自覚があった。もちろんこの再会をきっかけに元のさやに収まりたいなどというさもしい気持ちは持参していない。ただ最愛のかつての恋人の栄えある瞬間をこの目で見届けたかった。

 ところが敷島椰哉子はやって来なかった。
 司会者は欠席の理由を、体調不良によるものと告げた。
「敷島先生は実は以前から体調を崩されていたのですが、今回の授賞を大変喜ばれておいでで、式には来て下さることになっておりました。ところが数日前より体調が悪化してしまったとのことで、今日もギリギリまで頑張ったのですが、どうしても飛行機に乗れなかったとのご連絡が先ほど事務局の方へ届きました」
 柊は落胆した。
 ……そんなに具合が悪い? 飛行機に乗れないって……彼女はもう二宮には住んでいないのか? 
 椰哉子の代わりに出版社の編集スタッフたちがステージに上がっているところで、柊は重い扉を押して会場を出た。
 ロビーへと続くカーペットの上を歩くと、不意に椰哉子が瀬戸内の波のない浜辺に腰を下ろしている後ろ姿が目に浮かんだ。
 ——二年前。別れを告げられる前の週。
『こっちの海は怖いの』
 柊の肩に凭れかかって、椰哉子は遠い水平線を見遣りながら続けた。
『私は波のない、どこへ行っても対岸の見える瀬戸内の海を見てきたから……だから水平線だけの海を見ると怖いの』
 そう言いながらも彼女は西湘バイパスの高架を潜った向こうの、延々と続く砂利浜に腰を下ろして、遊泳禁止の相模灘を眺めるのが好きだった。そしてあの日、くっつけた体の間に僅かでも隙間があるのを嫌うように、何度も強く体を寄せてきた。

 帝国ホテルを出て薄曇りの空の下、日比谷駅へ向かいかけた足を横断歩道へと向けた。信号が青に変わると走って渡り、日比谷公園へ入っていくとすぐにスマホを取り出す。
 柊は目を見開いていた。大きく息を吐いてから椰哉子の電話番号に掛けた。
 勿論分からない。分からないが、別れの本当の理由に今ようやく行き着いたような気がした。
 ……今ならきっと椰哉子は電話に出てくれるに違いない。
 ところが現在使われていないという音声案内に、柊はただ呆然とその場に立ち尽くした。

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