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【短編小説】 素敵な雨のはずなのに 6

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 タクシーを降りて南麻布のマンションに帰った柊は、集合ポストを確認してからエレベーターのボタンを押した。四階の部屋に帰り着くといつも通り真っ先にシャワーを浴びる。
 最近すっかり白髪の増えたビジネスツーブロックをガシガシ洗いながら考えていた。
 堀川文学賞の授賞式は一ヶ月後。壇上でスポットライトを浴びる椰哉子の姿を会場の端から見届けるのだ。寡作かさくで普段からマスコミにはほとんど顔を出さない彼女だった。どんな風に変わっただろうか。
 脱衣場から出るとキッチンへ向かい、冷蔵庫から一旦缶ビールを取り出したが思い直して炭酸水にした。突き出た腹を見て、浴室の鏡に向かいこの一ヶ月で体重を五キロ落とそうと誓ったばかりだった。ソファに腰を下ろして、キャップを開ける。
 記憶を辿るまでもなく捨てられたのは自分。今も不意にフラッシュバックする苦々しい記憶には思わず片目をしかめてしまうことがある。そう、もう二度と会うことはないと思っていた。そのくせ、いざ自然な言い訳の成り立つ再会のチャンスが訪れたと分かると、経年劣化した自分の姿は見せたくないという思いがすっかり先行していた。ペットボトルを呷って、
「迷惑がられるかな……」
 息をひとつ吐いてからテレビを点けると深夜のBSニュースをやっていた。
「え、マジか……」
 あたかも計ったかのように堀川文学賞の受賞者を知らせるニュースだったことに柊は目をみはった。受賞者の近影が大写しになったが、それは現在の椰哉子ではなく、付き合っていた当時柊自身がそこの有栖川宮記念公園で撮影した写真だった。
 ——ある秋の日。
『あ、ほら、これはいい写真だよ!』
 黒髪ワンレングスの椰哉子が池を渡る橋の上で、色づき始めた森を背景に優しく微笑んでいた。横並びにスマホを覗き込んだ彼女は、私の著者近影に使うから送ってとニッコリ笑った。そして今度はその場で顔をピッタリ寄せて自撮りした。
『ねえ、柊さん』
『ん?』
『二度目のデートで柊さんと箱根の山をドライブした夜、車を止めて二人並んで西湘の夜景を眺めたじゃない。あのとき私、一番最初になんて思ったと思う?』
『なんだい、いきなり……』
『この人にキスして欲しいって思ったの』
 椰哉子は、心の一番上にある想いに素直に従いたいといつも言っていた。
『だから手すりの上にあったあなたの手の上に、私から手を重ねたの。だってそうしないと柊さん、絶対にキスしてくれないと思ったから』
 椰哉子との甘い記憶もまた、いつも不意に蘇ってくる。なんと言ったらいいのか、小説家の言葉には、いつも、今でも、心にさざ波が立った。

 柊はベッドに横たわった。長い一日だった。灯りを落として目を閉じると、すぐに眠気がやってきた。
 ——去年の晩秋。芝浦しばうら運河の午後のテラス。
「素敵な雨のはずなのに」を読了し、パタンッと本を閉じて思った。出版について椰哉子からは連絡もなければ、当然に恵贈けいぞうもなかった。けれど別れから一年半、椰哉子の心の中から早坂柊という男のすべてが消去されてしまった訳ではないということだけはハッキリ分かった。
 物語の舞台の弘前ひろさきにはまだ訪れたことがなかったし、男女も入れ替わっていたが、二人しか知らない記憶や会話が美しい言葉であちこちに散りばめられていた。そして些細なことではあるけれど当時は知り得なかった椰哉子の想いさえ知ることもできた。もし今、あのときそんな風に思っていたんだと尋ねたら椰哉子は何と答えるだろう。
『どうでしょ? だって私は小さい頃から嘘つきだったの』
「……ハハ」
 暗い部屋の中で思わず笑ってしまったのは、椰哉子が間違いなく言いそうな言葉が、まるで会話のようにスッと浮かび上がったからだ。
『柊さんもよくご存知の通り、小説なんて嘘のかたまり。そう、小説の中にある唯一本当のことって、一番最後に打つ「了」の字だけなんだから』 
 ただし物語を読んでも、どうして二人が終わらなければならなかったのか、その理由は分からなかった。けれど月日を経た今、最早その理由を問い直したいとも思っていなかった。
 椰哉子の受賞は心から嬉しい。ただそれを知ったとき真っ先に頭の中に浮かび上がった文字は、祝福ではなく再会だった。
 ……椰哉ちゃん、僕を見てどんな顔をするだろう。いつもよくそうしていたように、大きな黒い瞳をさらに大きく見開いて。
 勿論しゃしゃり出るつもりなんて毛頭ない。あくまで過去の人間として、穏やかに心から祝福の言葉を贈ろう。それに椰哉子も決して迷惑そうな顔はしない気がする。   
 ……ああ、握手を求めたら、ひょっとして応えてくれるかもなあ。
 眠りに落ちながら、柊の心は静かにおどった。

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