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【短編小説】 素敵な雨のはずなのに 8

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 村上と別れた柊は赤レンガ通りでタクシーを拾って、麻布十番で降りた。
 酒を控えていたはずが久々に飲むと簡単にたがが外れてしまって、なんとなくもう少しだけ飲みたい気分だった。
 いきつけのバーに立ち寄るとスツールに腰を下ろして、懐かしい香りを愉しみたくてゴッドファーザーを注文した。

 ——敷島椰哉子という作家の存在を知ったのは九年前、三十四歳のときだった。
 東京文学新人賞を受賞したデビュー作の「新しい関係について」を読んで、なんて涼しい文章を書くのだろうと感心した。意図して作り込んだという印象ではなく、あくまで自然に行間を読ませてくれることに確かな才能を感じた。ただ当時の柊は手がけていた作品も多く、コンタクトをとっても中途半端に終わる危険性が大きかったのでそのままにしていた。
 翌年、その翌年と、同じ出版社から年に一作のペースで椰哉子は作品を発表していた。正直セールス的には芳しくなかったが、作品の質は確実に上がっているように感じた。
 そして五年前。柊は出版社に連絡して椰哉子にコンタクトを取った。
 ほどなく預かった生原稿。その温かな読後感に柊は確かな手応えを感じた。
 そして村上をはじめ社内に根回しをして味方を増やし、出版会議に上程。敷島椰哉子の第四作目となる「二人の時計の進み方」は、日本黎明出版社から出版することが決定した。

 本が書店に並んでから半月くらい経った晩秋のある夜。
 出版の打ち上げと銘打って、初めて二人きりで飲んだ。東京の八重洲やえすを選んだのは二宮町に住む椰哉子が上野東京ライン一本で帰れるように配慮してのことだった。
 仕事を離れた椰哉子は好奇心旺盛で、いろんなことを訊いてきた。 
『早坂さんはどうして編集者になろうと思ったんですか?』
『どうなんでしょうね。物語が好きだったからかなあ。でも小学生の頃までは、夏休みの課題図書さえ読むのが億劫で、結局読めずに始業式を迎えて読書感想文の提出に困ったこともありましたね』
『へえ。それがどうするとこうなったんでしょう?』
 椰哉子の目の輝きに、これは一種の取材なのかもしれないと思いつつ答えた。
『中学一年生のときクラスに好きな女子がいて、その子は図書委員で休み時間や放課後に窓辺で一人静かに本を読んでいたんです。あるとき、通りがかったふりをして何を読んでいるか聞いたら、司馬遼太郎先生だったんです……って、なんかごめんなさい、こんな話をして』
『ううん、続けて』
 その椰哉子の微笑む瞳を見た瞬間、もっと自分のことを知ってもらいたいと思っている自分に気がついた。
『いつも本読んでいるけど読書って面白いの? って、確かそんなことを尋ねたと思います。するとその子はうなずいたんですが、その文庫本はタイトルの下に数字の「八」とあって僕はぎょっとしました。つまり八巻目です。小説を八巻って……気が遠くなりました。すると彼女、読むなら貸すよって』
 椰哉子がクスッと笑った。
『当時から優柔不断な僕は断りきれずに生返事をしたんですが、次の日、紙袋に入れて一巻から七巻を持ってきてくれて』
『あら』
『今読んでる八巻も読み終わったらすぐ貸すねって言われて、要するに引くに引けない状況へ追い込まれてしまったんです』
『あはは、なんかそのときの様子が想像できて可愛い!』
 椰哉子が笑うと嬉しくなる自分がそこにいた。
『その子きっと、早坂さんのこと好きだったんでしょうね』
『それはどうだろ。けれど人が読書している姿というのは子ども心にもカッコいいと思っていたんですよね。そしていざ読んでみると、これがもう圧倒的に面白い』
 相槌に幸せを感じながら、
『ページをめくる手が止まらなくなってしまったんです。それからですかね、一気に読書の楽しさに取り憑かれてしまって、いろんな本を読むようになりました。それこそ数え切れないくらい』
『早坂さんご自身は、小説を書こうとは思わないんですか?』
『え?』
 唐突な質問に面食らった。するとしみじみとした語り口で、
『今回、早坂さんにチェックしていただきながら気づかされたことって本当に多くて。それは私には到底思いつかないようなことばかりだったし……で、こう思ったんですよ。早坂さんはきっととてもいい作品が書けるんじゃないかって』
『…………』
 柊はひとつ呼吸を整えてから言った。
『誤解を恐れずに言えば、ひょっとすると作家さんより編集者の方がいろんなパターンのたくさんの文章に触れているかもしれませんよね。実際、言葉や表現の引き出しの数が少なかったら、編集者という仕事は難しいかもしれません』
 吸い込まれそうな黒い瞳から目を逸らして続けた。
『こうした方がより良くなると感じる箇所があれば、自分の考えをお伝えすることも僕は編集者の大切な仕事だと思っています。けれど……』
 椰哉子が静かに首を傾げた。
『最終的にどうするかを決めるのはあくまで作家さんです。なぜなら、小説は作家さんの芸術作品だからです』
 椰哉子はゴッドファーザーのグラスに視線を移し、耳を傾けていた。
『編集者と作家さんは作品を世に出すため、ときには意見をぶつけ合いながらひとつのゴールを目指します。でも決定的に違うことは、作家さんは何もないところからひとつの世界を創り出すんです』
 カウンターの向こうで初老のバーテンダーが丸氷を削るのを見つめながら言った。
『創作というのは誰にでもできることではない。限られた人にのみ与えられた才能なんです。そして既に存在しているものを、作家さんの紡ぎ出す世界を、僅かにも崩すことのないよう注意しながら磨き上げる……それが編集者の仕事だと、そんな風に思っています』
 椰哉子は黙ったまま優しく微笑んでいた。

 そして東京から品川まで柊も上野東京ラインに一緒に乗った。ホームで椰哉子にグリーン券を買ったが、
『だったら品川までは』
 そう言って彼女は混み合った普通車に乗った。
 僅かな時間だったが、心がとてもリラックスしていた。それはきっと自分に言い聞かせ続けている言葉を忘れていなかったからだ。
 品川駅に着く直前に椰哉子が訊いてきた。
『その図書委員さんとはどうなったの?』
『……え?』
 質問よりもその言葉遣いを嬉しく感じた。
『交換日記をするようになって。けれど彼女は二年生になってすぐ転校してしまって、それっきりでしたね』
『ふ〜ん。でもその出会いが今の早坂さんに繋がっているって考えたら、私も彼女に感謝しなくちゃ』
『…えっ?』
 なんて返せばいいか分からなくなって、けれど確かに今の今、この瞬間があるのは他でもなく彼女のおかげのように思えて、
『敷島先生が仰る通り、彼女はもしかしたら僕の人生に多大な影響を与えてくれた…女神なのかもしれません』
 眉間に皺を寄せて言うと、椰哉子はプッと小さく吹いて楽しそうに何度もうなずいた。
 そして次の約束もないまま、乗り換えたグリーン車のドア越しに笑顔で手を振り合った。一緒にいる間、果たして自分にいったい何度言い聞かせたかしれない言葉、「好きになってはいけない」を三回となえて深呼吸とともにプラットホームを後にした。

 椰哉子にも明かしていなかったが、実を言えば仕事の傍らこれまで何度も大手出版社の募集する文学新人賞に応募していた。しかし二次選考までは残るがいつもそこまでだった。自分の落選した新人賞の受賞作品を読みながら、自分の作品に何が足りなくて、この作品には何があったのかと考えた。
 正直、答えは分からなかった。


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