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【短編小説】 素敵な雨のはずなのに 5

 二宮駅から上野東京ラインのぼりの最終電車に乗った。
 これは悪夢ではないのかと自分に問いかけながら、誰も乗っていない車両の窓辺に座って不満と悲しみで遣る方ない思いを送信した。すると程なく返信が届いた。そこには、二人が一緒にいると互いに甘えてしまう、私たちはお互いにまだ成長できると思う、と初めて理由らしきことが綴られていた。車窓に頭をもたれかけて呆然とつぶやいた。
「なんだよ、いつから……そんな風に思っていたんだよ?」
 作家と編集者——自然に惹かれ合うように、二人同時に恋に堕ちた。
 互いに離婚歴があり、そこで学んだことがあった。だから二人は尊重し合ってきた。互いの仕事は僅かにも疎かにしなかった。何より二人は自由だった。そして互いにこう囁いた。出逢えたのは運命だったと。見つめ合う黒い瞳の奥に翳りを感じたことは一度だってなかった。それなのに突然、存在が成長の妨げになると告げられた。

 終点の品川で、プラットホームのベンチに腰を下ろしてメッセージを打った。会えなくたっていい、けれど心のどこかに繋がりを持っていたいと。時間を置けば、いつかまた風向きも変わるのではないかという一縷いちるのぞみでもあった。けれど返信は残酷だった。
〝その繋がりを断ちたいのです。断って、そしてお互いにそれぞれの未来へ向かいましょう〟
 一人で勝手に決めた意志は固く、そして覆すことは不可能だと悟った。ここまで書かれては、もう引き下がるしかなかった。
〝分かりました。これまでありがとうございました〟
 そう送信してなお、返信を待っている自分が痛かった。

 巡回の駅員に促され、ベンチから立ち上がると激しい眩暈めまいに足がよろけた。もう二度と連絡はできない。というか、もう連絡なんてしない。こんなのをプライドと言うなら、男とはあまりに悲しい生き物だった。

※ ※ ※

 眠れぬ日々が始まった。
 帰宅すると眠るために強い酒をあおった。仕事の疲れと相まって直ぐに寝落ちたが、程なく目が覚めるとそこから眠れなくなった。
「いったい……何がいけなかったってんだよ」
〝僕に悪いところがあるなら言って欲しい。全部直すから。だから椰哉子、いなくならないでよ〟
 上野東京ラインの中で自分の綴ったメッセージが、喉元にこびりついたまま何度もリピートしていた。四十年生きてきて、初めて人にすがった。けれどその一方で分かっていた。縋られて元の鞘に収まるくらいなら、初めから別れを切り出すような女ではなかったし、そもそも愛情があるなら、不倫でもない男女の間に別れを選ばなくてはならない理由などあるはずもなかった。つまりもう心はないということ。そう、なんのことはない、単に見切りをつけられたという話だった。
 なのに、メッセージの着信はないかと仕事中もついスマホを見てしまう癖。毎日何度も小さな絶望を繰り返すうち、ここまで愛させておいて一方的に断ち切るなんて、そんな冷酷な選択が普通できるものなのかと、その悲しみは次第に怒りに変わってきた。 
「だって……あり得ないじゃないか……」
 或いは作品づくりのうえで、こういうケースで人はどういう反応を示すのかとサンプルにされているのではないか? 愛情を極限まで純粋培養してそれを一気に断ち切ったら、相方はどういう反応を示すのか。
 毛布を被って、ギリリと歯を噛む。
 ……そんな酷いことを、彼女がするはずがない。
 でも現にこんな風に捨てられていた。椰哉子のことを分かっていたようで、実は一緒に過ごした時間はたったの二年。自分の知っている椰哉子とは彼女のほんの表面的な部分でしかなく、元来そういうことができる人間だったのではないか?

 となりの有栖川宮記念公園の森から不如帰の啼く声が聞こえた。
 二度目の啼き声が聞こえたとき、ガバッと身を起こした。どうあれ所詮は人の心の痛みも分からぬような女なのだと何度も自分に言い聞かせた。言い聞かせたが、メガネを掛けるとスマホを手にとって、
〝どうしても椰哉ちゃん、君のことが忘れられない〟
 悲しみに耐え切れず、打ったメッセージだった。送信して天井を見上げ、目を伏せて再び毛布を被った。どうして、なんで、こんな目に合わなくてはならないんだと拳を握り締め打ち震えていると、なんとメッセージが着信した。柊は目を見開き、むさぼるように読んだ。
〝柊さん。終わりにしてください。
 あなたは二年間、十分すぎるほど私に愛を注いでくれました。二人ときどき捻れてしまうこともあったけれど、それすらも輝いていました。あなたに会っていると私は少女のように幸せを感じている自分がそこにいることをいつも感じていました。
 人生のすべてには季節があります。その美しかった部分だけを鮮やかな記憶として残したいという私のわがままを、どうか許してください。
 柊さん、本当にありがとう。どうかお幸せに〟

 そのメッセージが最後になった。
 何度も読み返した。何の答えにもなっていなかった。けれど書いてあることになぜか、虚飾や偽りは感じなかった。悲しくて、悔しくて、切なくて、メッセージそのものを消してしまおうと何度も思った。が、二人が確かに愛し合った証を感情任せに消してしまうことは結局できなかった。
 それでもなお椰哉子を愛していた。その彼女が別れを望む以上、現実を受け容れるしかなかった。
 椰哉子の言う通り、人生のすべてには季節があって、そして季節はひとつところにとどまらなかった——。

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