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【短編小説】 素敵な雨のはずなのに 9

 麻布十番のバーを出た柊は七月の夜の匂いを吸い込みながら、暗闇坂くらやみざかから狐坂きつねざかとゆっくり歩いてマンションへ向かった。坂だらけのこの街を椰哉子はとても気に入っていて、二人でよく歩いたものだった。

 ——品川駅で椰哉子を見送ってから、ふた月ほど経った初夏。
 様子伺いの電話を掛けると最初のうちいくらかよそよそしさを感じたが、いつもの心地よい声で言われた。
『そうそう、早坂さん、次の作品の取材をしに行きたいのですが、もしお時間あったら付き合っていただけませんか?』
 車は持っていないが運転は好きだからカーシェアリングを利用してあちこち走り回っている、そう話したことを覚えていてくれた。勿論快諾した。
 迎えたその日。途中で工事渋滞に巻き込まれ、待ち合わせしたJR大磯おおいそ駅に着いたのは約束時間を五分過ぎたところだった。
 オレンジ色の屋根瓦の白い駅舎の前に、白い帽子に白いブラウス、アイボリーのワイドパンツに白いデッキシューズを履いた椰哉子の姿を見つけたとき、自分でも慌てるほど胸が高鳴った。
 向かったのは富士山麓。快晴の、いわゆるデート日和だった。
 山中湖畔にある大きな広間の座敷で、差し向かいに甲州名物のほうとうを食べながらいろんな話をした。
 椰哉子には独特の透明感があった。黒い瞳は大きいがどちらかといえば和風の整った顔立ちで、口元から視線、しなやかな指先、仕草のひとつひとつまでが美しかった。
『若かりし頃、私は恋多き女だったんです』
 忍野おしの村の一面の花畑の中で、椰哉子は笑って言った。
『私の書く作品は、ぜんぶその頃の貯金の切り崩しですから』
 楽しくて、眩しくて、そして切なくて。正直、何を取材に行ったのかすら完全に忘れていた。
 家まで送り届けて一人になった帰り道。それまで必死に封印していた気持ちがどうしようもなく無意味なことに思えた。彼女と会って好きにならずにいられる男なんているはずがなかった——。

 南麻布のマンションに帰り着いた柊は、いつも通り真っ先にシャワーを浴びた。
 捨てられたばかりの頃。連絡を取りたくて夜も眠れなかった。
 結局のところ別れの理由は不可解なままだったし、自らを恋多き女と語った椰哉子の言葉を鵜呑みにして、彼女が他の男へ移っていったと考えれば、それなりの腑落ちは得られた。ただ、男としてはそれこそが一番考えたくないことだった。他の男の腕に抱かれている彼女を僅かにも想像すれば、嫉妬の業火にこの身を焼き尽くされそうになった。
 それでも年齢を重ねるということは自他の多くの現実を目の当たりにして、慣れて、鈍感になっていくということでもあるらしかった。仮にあの失恋が十九、二十歳はたちくらいの感性が最もヒリヒリしている頃だったとしたら、それこそ鬱になってしまうほど落ち込んだのではないだろうか。
 また一方でこんなことも思った。絶望のどん底にあった自分がそれでも程なく気持ちを切り替えて前を向くことができたのは、長らく読書を通じて様々な心象を疑似体験してきたからではないかと。
 村上も言っていた通り出版業界は今、かつてない斜陽のときを迎えている。それでもまだ自分がこの世界に身を置いているのは、文芸というものが自分の人生に与えてくれた視点や示唆に感謝しているからであって、そして願わくばいつか自分も誰かの人生のマスターピース、座右の書となるものを生み出す、その傍に携わっていたいという思いからなのかもしれないと。

※ ※ ※

 次の日の午後、柊はいつものようにオフィスを出た。昼間は打ち合わせのために出歩くことも多かった。
 街を行く柊はスマホのカメラで目に止まった印象を残した。六本木や渋谷の竣工したばかりのビルとそこからの眺め。つくだ大橋の欄干で羽を休めるウミネコ。乃木坂のちょっと路地を入った場所の軒先に見つけた風鈴。都電荒川線のハイカラなしつらえや線路のある風景。芝浦運河の日向で昼寝する野良猫。そして熱海の急坂を登りつめた場所から見下ろした銀色の水平線——そんな日常を切り取っては椰哉子へ送り、短いメッセージを添えた。
『柊さんがたくさん写真を送って教えてくれるから、私もいつも一緒にあちこち散歩しているような気になるよ』
『邪魔になってないかい?』
『ううん、全然。嬉しいよ。いつも私のこと思ってくれているんだなあって思うもの』
 写真を撮るのは好きだった。そんなことが手軽にできるようになったという点ではスマホを歓迎した。そして何より、その写真を見て一緒に感じてくれる大切な人がいた。だから、その写真が行き場を失ったことが寂しかった。
 それからも街を行けば写真を撮った。柊にとって写真を撮ることはもはや習慣だった。そしてそのたび無意識に椰哉子のことを思い出してしまうことについては、自分の心の仕様として諦めていた。いつの日か風向きが変わることもあろうと——。


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