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【短編小説】 素敵な雨のはずなのに 2

 JR熱海あたみ駅に降り立つとすっかり雲が消え、夏空が広がっていた。
 柊は駅前広場の日常的な風景を、空の青がしっかり映り込むようにスマホで一枚撮ってから歩き始めた。
 ガードを潜ってすぐ裏手の桃山坂を登り始める。まずは線路沿いの道を新幹線ホームの屋根を越えるまで一気に上り詰める。これだけでもしんどいが坂はそこからがいよいよ本番といっていい。幅員の狭いヘアピンをひとつ、またひとつ。
 熱海は坂ばかりの町だ。作家先生の住むマンションは地図で見る限り駅から目と鼻の先だったが、その間にはとんでもない高低差があった。連なる屋敷を見遣みやりつつ蝉時雨の中でひと息つくと、風にそよぐ竹林と古いビルの向こうに初島はつしまが揺れて見えた。
 いつだったか、海の眺望と温泉のある暮らしに憧れてつれづれに計算してみたことがある。この熱海に今住んでいる南麻布みなみあざぶのマンションと同程度の広さの部屋を借りて、新幹線の定期代を合わせても今の賃料ととんとんヽヽヽヽ。通勤時間にしてもここから三田の事務所までたかだか一時間弱で、今と三十分まで差はないし、そもそも編集稼業なんて出勤時間は毎朝てんでばらばらだった。
 六年前の三十七歳のとき、七年間連れ添った妻と協議離婚が成立して以来独り身。要するに自分次第だった。思い切って生活を変えてみようかなあなんて、冗談半分に言うと椰哉子に笑われた。 
『一緒に熱海で? うん、素敵ね。でも柊さん、真夜中にタクシーで熱海まで帰ってくるの?』
 仰る通り。週に三日はタクシーで午前様の帰宅。実は背中に一押しあれば……くらいに考えていた甘美なシミュレーションはそこまでだった。

 作家先生の住むゴージャスなマンションに到着すると、額に吹き出した盛大な汗をハンカチで拭ってからオートロックのインターフォンを押した。
「あ、日本黎明にほんれいめい出版社の早坂でございます」
 月刊文芸誌の連載原稿の直しと打ち合わせ。月に一度のルーチンワークだ。

※ ※ ※

 東京へ戻るこだまの中で、柊は預かった原稿をあらためてゆく。
 ——昨今は文芸書がいよいよ売れなくなっていた。別段大衆が文字自体を読まなくなった訳ではない。ニュースにSNS、動画にゲームと、新鮮かつ刺激的で無料のコンテンツに溢れたスマホを前にすれば、買ったり借りたりして読む活字に分を見出す方が難しいという構図だ。この活字離れの潮流はテクノロジーの進歩に伴う必然の変化とも言えたし、ある意味これも人類の正常進化の過程と言えるのかもしれない。
 柊は胸ポケットのミントタブレットを口に放り込み、ガリッと噛んだ。
 印刷物の市場は今後ますます縮小し、ネームバリューのある作家にばかり原稿の依頼が集中するのだろう。とはいえ時代小説の大御所であるこの作家先生の原稿など、シリーズ物の常というかマンネリ感は否めず、腹蔵なく言えば文芸作品というより固定客に向けた読み捨てられていく消耗品というのが実感だった。
 何にせよ作家を含め出版業界の淘汰は今後不可逆的に加速してゆく。それは確信に近い予測であって、そして自分はそのことに長らく危惧を抱いているのだから、今すぐにでも未来に対して何かしら行動を起こしていいはず。なのに実際には現状をただ嘆かわしく思うばかり。こういうのを認知的不協和とでもいうのだろうか。
 いつしか車窓に向けていた視線を、ため息をついて万年筆の原稿へ戻した。

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