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【短編小説】 素敵な雨のはずなのに 4

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 午前一時前。二橋にのはしの交差点から仙台坂せんだいざかに入ったタクシーの中で、柊はスマートフォンに残る古いメッセージを辿っていた。

 ——二年前の六月のある朝。突然不可解なメッセージが届いた。
〝私たちはこのまま一緒にいると二人ともダメになると思いました。だから今日で終わりにしましょう〟
 何の冗談かと首を傾げながら電話を掛けたが、いくら鳴らしても通じなかった。
〝何かあったの? 冗談にしては結構キツいんだけど〟
 そう送ったメッセージも既読にならなかった。
 気になって仕方なかったが、生憎その日は打ち合わせや会議がたて込んでいて深夜になるまで一人になれなかった。メッセージこそ夕方に既読になっていたものの——その日見た水平線のことや、例えば散歩道で四つ葉のクローバーを見つけたというような日常のささやかな出来事、そして疲れた体と心を癒してくれるビタミンのような数々の言葉——毎日たくさん着信するはずのメッセージが、ひとつも届いていなかった。
 いつもならオフィスを出て直ぐに止めるタクシー。けれど目もくれず電話を掛けた。呼び出し音は鳴るが相変わらず通じない。桜田通りの横断歩道を渡ると、立ち止まってメッセージを打った。送信と同時に〝配信できませんでした〟と表示された。
 柊は立ち尽くし、夜の闇に浮かぶ東京タワーのネオンをただ呆然と見つめた。
 次の日も、その次の日も連絡はつかなかった。SNSもブロックされてしまって、彼女のページを見ることもできなくなっていた。

 柊が東海道本線の二宮駅に降り立ったのはその前の週と同じ、金曜の晩の午後九時半過ぎのことだった。約束なんて何もなかった。毎週金曜日の晩は椰哉子の住む二宮の海辺の家に帰るのが一年以上前からの決まりごとだった。
 とにかく理由を知りたかった。暗い夜道、一歩ずつ潮の香りが近づいてくる中で、不安を払拭するように小さく幾度もうなずいた。こうなってしまったことに例えどんな理由があるにせよ、深く愛し合っていた二人だった。時間が掛かっても必ずやり直せるという確信のようなものがあった。

 海沿いの高台に並び建つ家の中に、確かに人の気配はあった。けれど何度インターホンを鳴らしても反応はなく、痺れを切らしてノックをしても出てこなかった。
 ……或いは中に誰か他の男でもいる?
 下衆げすの勘繰りが頭をもたげる。何度かノックするうちに隣家の玄関ドアがおずおずと開くや、中から初老の女性が顔を出していぶかしんだ声で言われた。
「そんなに……何度叩いても返事がないなら、お留守なんじゃないですか?」
「……ごめんなさい」
 バタンッと強く閉じられた次の瞬間、ポケットのスマホが鳴動した。椰哉子からのメッセージだった。
〝会えません。帰ってください〟
 やはりいた。しかし絶望のみを端的に伝えるセンテンスは、僅か数日前まで愛を語り合っていた恋人からとはまるで信じられなかった。すかさずメールを返そうとしたが、指先が震えて何度も誤った。
〝お願いだよ。玄関先だけでいいから顔を見せてくれないか。なぜこうなったのか分からない。理由を教えてよ〟
 直後に既読になったが返信はなかった。中にいるのが分かっているのだから閉ざされたこのドアが開くまで、近所迷惑なんて無視して激しくノックし続けたい衝動に駆られる。が、生憎そんな度胸もなかった。
〝すぐに帰るから、一目だけでも会ってください〟
 返信はなかった。いったいどこで何がどうねじれてしまったというのか。鼓動が乱れた。

 それからしばらく、混乱したまま星を見上げているとスマホが鳴った。
〝ごめんなさい。会えません。帰ってください。そしてもうここには来ないでください〟
〝理由も知らされずに、そんなことできないよ〟
 そして続けざまに送信した。
〝いったい僕たちの間に何があったというんだ? こんなに一方的に別れをぶつけられても、僕には到底受け入れることなんてできないよ〟
〝もしかして今誰かそこにいるの?〟
〝こんなに君のことを想っている。僕に何か落ち度があったというのなら、それを教えて欲しい。お願いだからここを開けてください〟
 沈黙したままのスマホに業を煮やして電話を掛けると、家の中から微かに椰哉子のスマホの着信音が聞こえた。いくら鳴らしたところで出てもらえないことは分かっていた。やがて諦めて切ると、崖下の西湘バイパスの車の走り去る音の向こうから浜に打ち寄せる潮騒が聞こえた。
〝誰もいません。けれど私のことを思って下さるなら、どうかお引き取りください〟


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