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【短編小説】 素敵な雨のはずなのに 3

 高層ビルが日比谷通りに長い影を落とす午後六時半過ぎ、柊は港区三田の日本黎明出版社に戻った。
 自社ビルの三階にある文芸第二編集局が一番賑やかになる時間だった。慌ただしいオフィスの中、デスクに座って留守中に溜まったメールをチェックしていると、
「早坂!」
 後ろから声が掛かった。
「今年の堀川ほりかわ文学賞、決まったな」
 振り返ると同期入社の営業副部長、村上宏和むらかみひろかずだった。柊はハッとして卓上カレンダーを見た。
「そっか、今日だった……」
 ひと月前の最終候補三作品が発表された日、今日の日付にマーカーを引いていたが、忙しさにかまけてすっかり忘れていた。
「で、誰?」
 首を向けて訊くと村上が呆れた表情で言った。
「誰っておまえ、本当に知らなかったのか? 敷島しきしま先生だよ!」
 柊は勢いオフィスチェアを半回転させて村上に向き直り、
「え? ほ、本当に?」
「ああ!」
 急いでパソコンに向かってブラウザのトップニュースを見た。
「……あ」
 言葉を失くしている肩をポンと叩いて村上が言った。
「おめでとう。よかったよな」
「……ありがとう……そうかあ」
 他社の受賞作におめでとうとありがとう……ふと思うに筋違いな気がしなくもない。けれど今、村上の祝福が素直に嬉しかった。
「早坂の担当した作品だったら、もっとよかったんだけどな」
 柊は微かに笑って首を振る。
「会社からあっちの版元経由で敷島先生宛に祝電入れておくわ……てか早坂、おまえがやるか?」
「……いや、悪いけどお願いするよ」
「了解! お、早坂、来週あたり、お祝いで一杯いこうぜ」
 村上の背中に頭を下げて、柊はもう一度ニュースを読んだ。 

 ——敷島椰哉子。二〇一〇年に「新しい関係について」で東京文学新人賞を受賞し、文壇デビュー。七作目となる本作で、文学賞の最高峰と称される堀川文学賞を受賞。三十九歳。山口県柳井やない市出身。

「……本当によかった」 
 日本黎明出版社における椰哉子の担当が、柊だった。
 今回の受賞作「素敵な雨のはずなのに」は当然に読んでいた。去年の秋のこと、タイトルじゃないがすみれ色の雨がそぼ降る発売日に、JR田町たまち駅前の書店で平積みされていた一冊を買い求めた。
 売れない男性作家と女性編集者の恋愛の物語は、軽妙なテンポの中に次第に高まってゆく互いへの想いが痛かった。その哀切を自然に綾なす筆致は、もはや物語なんて純粋に楽しめなくなった悲しき編集者視点を軽々とかわして、シケた中年男の胸の内にもしっとりとした多幸感を残してくれた。
 今回の大いなるお墨付きによって椰哉子にはあちこちの版元から執筆依頼が殺到することとなる。もちろん当社も例外ではないだろう。ほどなく営業部から柊のもとへ、彼女とのコンタクト要請がくるに違いない。
「早坂さん! 敷島先生やりましたねー! きっと〝素敵ステキアメ〟だろうなあって、みんなで言ってたんですよ!」
 横を通りかかった女性編集者の元気な言葉に愛想笑いを返してから、柊は思わず天井を見上げて唇を結んだ。温かな感慨の背中合わせに当惑が控えていることくらい当然に分かっていた。
 ……参ったなあ。
 会社に対して椰哉子の方から担当者変更の申し出でもない限り、彼女の新たな作品がここから出ることはないと思う。なぜなら二人は今から四年前、作家と編集者という超えてはならない一線を超えて、まぶし過ぎる季節を共に歩き、そして二年前に悲しく終わっていたからだ。


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