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【短編小説】 素敵な雨のはずなのに 11

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 数日後、柊は品川に向かう山手線の中で中吊り広告を見て衝撃を受けた。
〝堀川文学賞作家 敷島椰哉子、末期ガンで授賞式を欠席〟
 品川駅に着くと真っ先に駅売店で週刊誌を求め、そして下りのこだまに乗った。
 席に着くやバッグを隣の席に投げ出して急いでページをめくる。鼓動は乱れ、額に血の気が失せていくのを感じながら。
 二年前の夏に左の乳房を切除して、今また再発した。だから授賞式に来れなかったとあった。  
「二年前の夏……」
 そこには抗がん剤の副作用で髪を失ってしまったのだろう、帽子を被る椰哉子の笑顔の写真が載っていた。
 柊は何も知らなかった。

 午後四時過ぎ。
 熱海の町と海を見渡せる広い和室で作務衣さむえの作家先生と打ち合わせをしていると、これまた作務衣の婦人がお茶を持ってきた。いつも快活で話好きの婦人だったが、こちらが仕事をしているときは邪魔をせぬようにと黙ってお茶と菓子を置いていく。それが今日は違った。
「ねえ、あなた……」
 作家先生が顔を向けると、婦人が遠慮がちにこう言った。
「今しがたニュースで見たのだけど、先日の堀川文学賞を取った先生がお亡くなりになったそうよ」
「なんだって?」
 作家先生は驚き、柊は全身が硬直した。その様子に気づいた婦人が、
「早坂さんは……ご存知でいらしたの?」
「…………」
「ご存知もなにも……日本黎明出版社で敷島先生を担当しているのが早坂くんなんだよ。さっきもそんな話をしていたところだ。早く快癒されるといいねと」
 柊はあまりに突然の出来事に動転し、
「……ちょ、ちょっとごめんなさい」
 そう言って立ち上がると、力の入らない足で窓辺に歩いた。
 ……椰哉子が死んだ? いったい何の冗談だ? なんで椰哉子が死ななくてはならないんだ。
「早坂さん……早坂さん?」
 柊の目には初島ではなく、二宮の海辺の家で肩を落として泣き崩れている椰哉子の姿が浮かび上がっていた。

※ ※ ※

 浜松町から東京モノレールに乗るとすぐに芝浦運河に通りかかる。いつもは見上げるばかりのモノレールから見下ろすと、まるで知らない街のように見えると言ったのは椰哉子だった。二人で羽田から飛行機に乗って能登へ行ったことがあった。
 熱海から戻った晩こそ心はすさんだが、翌朝から努めて冷静を取り戻していた。
 事実があまりに衝撃的であったにせよ、椰哉子の心象についてはすべて憶測に基づく自分勝手な解釈であって、ここで過剰に感傷に浸ることはある意味故人を冒涜ぼうとくすることにさえなりかねないと思った。
 椰哉子は自分と別れてからほどなく、郷里である山口県柳井市の実家に戻っていた。葬儀はごく身内で執り行うとのことだったが電話で身分を告げ、どうしても焼香したいと申し出ると日時を教えてもらえた。

 岩国いわくに錦帯橋きんたいきょう空港からバスで岩国駅へ向かい、そこから山陽本線の下関しものせき行きに乗って瀬戸内の海岸線を走る。眼下に椰哉子の言っていた穏やかな海が広がっていた。
 三十分ほどで柳井駅に降り立つと、初めて訪ねた山口の夏はうだるような暑さだった。
 斎場には告別式の始まる十五分前に着いた。想像していたより参列者は多く、ただ故人と誰がどういう関係なのかは皆目見当もつかなかった。中へ入って行くと並べられたパイプ椅子に喪服姿の遺族や関係者が座っていて小さな声で話をしている。
 祭壇の中央には微笑みを湛えた遺影が飾られていて、その手前に蓋の開いたひつぎが横たわっていた。
「東京からの方でしょうか?」
 声に振り返ると七十前くらいだろうか銀髪の男性が立っていて、その大きな目元を見た途端、椰哉子に通じる何かを感じた。自分の身分を告げると男性は深く頭を下げてから言った。
「どうぞ顔を見てやってください」
 柊は礼をして柩に向かったが、その段になって自分に現実感が足りていないことに気がついた。
「……椰哉ちゃん」
 柩の中の椰哉子は痩せ細っていたが、やっぱりとても美しかった。あれだけ願っていた再会が、まさかこんな形になろうとは夢にも思わなかった。ただなぜだろう。今こうして椰哉子を見つめることができているからなのか、心は驚くほどに穏やかなままだった。
「何もかも……これからと言うのに」
 口を衝いて出た言葉。ふと背後に並ぶ人の気配を感じて、
「椰哉ちゃん、ありがとう……」
 それが椰哉子にかけた最期の言葉になった。

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