見出し画像

【短編小説】 素敵な雨のはずなのに 最終話

〝柊さん
 いろいろ考えた末に今こうして便箋に向かっています。ですが、どう書き出せばいいのか悩んでしまいます。私は物語でもいつも書き出しに苦労していましたから。
 先に結論を書きます。私は柊さんに乳房を失ってしまった私を見せたくありませんでした。
 物好きなあなたは、歳を取って張りもない私の乳房なんかを可愛くて仕方ないよと言って、いつも何よりも愛してくれましたよね。私の胸に頬ずりしているそんなあなたのことが、私も愛しくて仕方ありませんでした。そして本当に幸福でした。

 いつだったかあなたに、私の母や六歳上の姉が四十歳を前に乳がんで乳房を切除したという話をしたと思います。私はいつか自分もそうなるのではないかという不安を常に感じていました。
 二年前の夏の初め。小田原の病院へ行ってステージ2と診断されたとき、遂に来たと思うと同時に、私はこのことをあなたに告げるべきかどうか迷いました。
 たとえ私が乳房を失っても、あなたが変わらずに私を愛してくれることに疑いはありませんでした。あなたの愛情はそんななことで揺らぐはずがありません。けれど仮にそうであったとして、それが嬉しいかといったら決してそんなこともありませんでした。
 これは黙っていたことですが、母も姉も発病後は早逝していました。この先、もしも自分が同じような運命を辿るのだとしたら柊さん、私はあなたをがっかりさせるばかりです。
 また一方で、あなたと季節を共にしていく中でこれまでもあったように、ちょっとした心のすれ違いを感じたとき、私はそれを乳房を失ったことに対するあなたの心の変化と感じ取ってしまいそうな気がして……そしてそんな風に考えてしまうようになる自分を想像したとき、それも耐えられないと思いました。 
 私は考えました。
 お互いの想いの強さや残された時間を考えると、フェイドアウトというのはどうしてもできませんでした。
 本当にごめんなさい。あんな風に断ち切ればあなたがどれだけ苦しいか、当然に想像がつきました。きっと柊さんに残忍な人間とさげすまれ、憎まれるんだろうなと思いました。けれどそれでも先々を思えば、私のことは苦々しい記憶として忘れ去ってもらうのが一番良いのだと、そう自分に何度も言い聞かせました。
 なのに今、最後の最後になってこうして言い訳がましいことを書いている。本当に自分勝手……。永遠に口をつぐんでお墓まで持っていけって話ですよね。
 結局この手紙は柊さん、あなたのことを誰よりも愛していたという証を、自分自身残しておきたかっただけなのだと思います。あなたに宛ててこそいますが、もしかしたら永遠に読まれることはないかもしれないし、それであればその方がいいんです。(そのくせ、物書きの性悪な本能なのかしら、あなたに読んでもらえたら嬉しいと思ってしまう自分がここにいます)

 おしまいにもうひとつだけ。
 柊さんはきっと気づいたよね。「素敵な雨のはずなのに」は、あなたのことを書いた物語でした。毎日、柊さんのことだけを思い浮かべて原稿用紙に向かいました。だから書いている間、私はただただ幸せでした。
 その物語が堀川文学賞をいただいて。なんだか、まるで私たちのことを祝福されているような気がして心の底から幸せな気持ちになりました。そして思いました。私はこの物語を書くためにこの世に生を受けたんだなあって。
 いつだったか、あなたに弘前の桜を見せてあげたいと話したこと、覚えていますか?
 長い冬をじっと耐えて、ようやく迎えた春の柔らかな陽光をまるで喜びあうように咲き誇る弘前の桜。私がその話をしたとき、あなたは私のまぶたを通してそれを見たのでしょうね。穏やかな笑顔のあとで、いつか案内してよって言ってくれました。
 二人が出会う前に戻ってから、私は自分が大学の卒業旅行で見て以来、目に焼き付いたままのあの桜をもう一度見たくて弘前へ向かいました。
 少し季節が進んでいたけれど桜は見事でした。見上げながら歩いていると生憎の雨が降り出して、とても冷たい雨でした。すぐに氷雨になって、凍えそうに舞う花びらを見つめていると急に寂しさがどんどんとこみ上げてきて、それはつらい雨でした。それでも、こんな雨でも、もし今ここに柊さんがいてくれたらきっと、素敵な雨のはずなのにって思いました。

 何を書いているのかしら。こんな手紙を最後に読まされたあなたは迷惑至極ですよね。もし読んでしまったら、そのときは私と出逢ってしまったことを悔やんでください。そしてどうか私の人生の最期の悪戯いたずらと思って許してください。
 この辺で筆を置きます。

 柊さん、私は天国からときどきヽヽヽヽあなたのことを見ています。いつもじゃなく、ときどき。
 だから柊さん、ちゃんと新しい恋を見つけて、そして幸せになってください。

 早坂 柊様

敷島椰哉子


 蔵を出ると遅い午後の夏空に目が眩んだ。熱風の駆け抜ける柳井津の白壁の町並みに出た柊は、まだ夕陽ともいえない太陽を見上げて歩き出した。 
 そのときポケットの中のスマホが鳴った。取り出して、けれど表示されている東京の03を見て、椰哉子に違いないと何故か思い込んでいた心が落胆した。
「もしもし……はい……そうです」
 東京文学新人賞事務局からの電話だった。一年ほど前に応募していた作品が新人賞に選出されたとのことだったが、その報せは虚ろに素通りしていくばかりだった。
 いつかまた椰哉子に笑って会える日、それだけを夢見てきた。これから先、自分はいったい何を心に生きていけばいいのか。
 奇くしくも椰哉子と同じ地平に立った四十三歳の夏。
 途方に暮れた柊の目に、白壁の軒に延々と連なる真っ赤な金魚ちょうちんが真夏のほとぼりの中でいつまでも揺れていた。

この記事が参加している募集

#創作大賞2024

書いてみる

締切:

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?