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伊勢商人からはじまる旧財閥系ミュージアム 三井記念美術館 日本橋

マンモスを凌ぐ巨象にオオサンショウウオから伊勢商人、他にはない一味違った展示だった前回の三重県総合博物館。県内松阪には当時の豪商の邸宅が現存していて、その圧倒的な財力を実感できます。
そして明治期に豪商からさらに飛躍し、日本経済を牽引する巨大企業グループとなった家もあります。そんな伊勢商人のハナシの続きです。




本当になくなるのか首都高

日本橋の北に位置するのは三井の越後屋からはじまる百貨店。三井は家の名前ですが、越後屋という屋号の由来は三井家の松坂時代に遡ります。


数年前はライオンもマスク装備

その三越を北に行くと、明治以降の三井の本拠地三井本館。その中に三井家の蒐集した美術品や歴史を垣間見れる三井記念美術館があります。
美術系の特別展・企画展は、1年周期ほどで同じテーマの展示が巡ってきますが、2023年には三井の祖三井高利をテーマにした面白い展示が。


三井本館

三井本館
 
美術館の入口はこちらではありません

三井本館です。三井のすずちゃんは見当たりません。日本橋は江戸時代からの三井の本拠地。丸の内の大家が三菱なら、日本橋の大家は三井。複数の三井タワーやコレドが文字通り林立しています。首都高速の地下化も計画されていますが、そうなると水路側も再開発が進むのでしょうか。


三井記念美術館

所蔵する美術工芸品は三井北家、新町家、室町家、伊皿子家、本村町家から寄贈された約4,000点。国宝6点、重要文化財75点三井本館自体も重要文化財。建物の設計はアメリカのローブリッジ&リヴィングストン事務所、1929年の竣工した三井グループの総本山。
グループ起源の場所にグループの歴史を展示公開し、街ごとブランディングする手法。三菱グループも2022年にこの手法を丸の内で踏襲しています。
美術館の源流は三井文庫で三井家の別邸内から始まっています。1984年に三井文庫別館(東京都中野区)で一般公開されるようになり、2005年に日本橋の三井本館へ移転し三井記念美術館として開館。


東京都中央区日本橋室町2-1-1


展示室は三井本館内ですが、日本橋三井タワーから入ります。三井タワー内には千疋屋やマンダリン オリエンタル東京が入居。千疋屋は平日、週末問わず混み合っています。

  
ガラスパネルには本館の柱をデザイン


美術館入口


エレベーターは古いのか新しいのか分かりません。明治生命館と同じくちょっとコワい。風格があるのは外装だけでしょうけど。


池田勇八作

エレベーターの扉が開くと正面には鹿。商人には縁起がいいものらしい。百貨店にはライオン、美術館には鹿。


美術館フロアで三井本館の遺物を感じられるのはコレだけ。
金庫と思いきやこちらは書庫用で、現在未使用ですがピカピカ(触るとグリースがつきますと注意書き)。アメリカのモスラー社製で扉の重さは約8t。三井本館には大小24の金庫があり、銀行用の金庫の扉は厚さ53cm、重さ50t!で、そちらは現役らしい。


パンフ2023年版 
 

三井記念美術館の白眉は国宝志野茶碗 卯花墻うのはながきとこちらも国宝丸山応挙まるやま おうきょ作 雪松図(個人的主観)。卯花墻は2碗しかない国宝国産茶碗の1つで茶道具系の展示の主役、そして雪松図はお正月の定番です。
 

雪松図と能面 展 チラシ 2008年12月-2009年1月(左)
室町三井家の名品 展 チラシ 2010年12月-2011年1月(右)

展示室内は一部撮影可能だったり不可だったり。
複数の展示室の真ん中あたりに、国宝の茶室如庵じょあんが再現されています。
かつては京都の建仁寺にあり東京の三井邸内に移築されていましたが、神奈川県大磯を経て現在は名鉄グループの手に渡り愛知県犬山市へ。
織田信長(1534-1582)の弟織田有楽斎おだ うらくさい長益ながます:1547-1622)ゆかりの茶室です。


如庵

(参考)愛知県犬山市


家祖 三井高利

三井高利みつい たかとし(1622-1694)は伊勢松坂の人。兄が江戸で呉服店、京都に仕入れ店を開き、高利も手伝います。母の世話のため松坂に戻り金融業を始め、1673年、52才の時に子供たちと江戸に越後屋を開業します。「現金掛け値なし」の始まりです。

高利さんの祖父高安(?-1610)は近江の人。当時、南近江を支配していた戦国大名六角ろっかくの家臣で、越後守えちごのかみを名乗っていました。
織田信長の上洛戦で六角氏は信長に一蹴され没落。高安は鈴鹿山脈を越えて伊勢へと落ち延びます。高安は子の高俊(高利の父)と松坂で商売を始め、かつての越後守から越後屋(越後殿の酒屋)と名乗るようになります。


三井高利と越後屋 展 チラシ
2023年6月-8月 三井記念美術館

展示室は一部撮影可能でした。

展示品で目を引いたのは高安所用の具足2領(桃山時代)。共に三井家の祖先を祀る顕名あきな霊社(東京都墨田区)の御神宝となっています。具足の扱いが江戸時代の大名と同じ。国井(円山)応祥による甲冑図まであります。いずれも撮影不可でしたが、神聖なものなのでしょう。

三井家は6本家(男系の家系)と5連家(娘婿、養子の家系)の11家から構成されています(明治期)。惣領は北三井家、当主は代々八郎右衛門はちろうえもんを名乗っています。
6本家
北三井、伊皿子いさらご、新町三井、室町三井、南三井、小石川三井
5連家
松坂三井、永坂町三井、五丁目三井、本村町三井、一本松町三井


高利さん(宗寿)と妻かね(寿讃:1635-1696)像

高利没後に描かれた三井高利夫妻象。別の夫妻象(寿像:生存時に描かれた肖像画)もありましたが、そちらは撮影不可。


家伝記

 

江戸本店の起こし絵図。茶室などによくある半模型的。


歌川豊春画

駿河町呉服屋図。天井から売場担当の名札や衣類の見本が。柱には合言葉のように「現金掛値なし」のコピー。今や時代はキャッシュレス。


左から大坂、江戸、京都の江都京都浪花三店えど きょうと なにわさんたな絵図」。京都は仕入店兼事業本部で絵図はほとんど残っていないそうです。


諸法度集しょはっとしゅう(1673)は高利さんの作成した規則集で、現代でいえば就業規則。巻末の花押は奉公人のもので確認サイン。江戸時代からキッチリしてます。


高利さんが江戸本店の幹部にあてた書状(写本)。倹約方法をビッシリと小さな文字で記しています。松坂から指示を出していたとはいえ、細かい人だったことが分かります。内容は節約方法をいろいろと。


高利さんの遺言書。息子達や妻への配分が記され、こちらには確認の花押に加え印鑑も。長男の高平が41.4%(29/70)の配分。


大元方勘定目録おおもとかたかんじょうもくろくは三井の全事業の資産と収支が記載された総決算帳簿(1710年から約160年分)。帳簿類がもはや美術品になっています。


毛類直打帳けるい ねうちちょう。京本店では長崎からの輸入衣料品も取り扱っていたそうです。端切れが添付された価格等のデータブック。ビスポークテーラーによくあるやつ。

現代にも通じる手法を江戸初期から駆使していた高利さん。またそれらを大切に残してきた組織。


三井高利と越後屋 図録
編集・発行:三井文庫、三井記念美術館
2023年 133ページ

図録には歴史系や美術系を詳しく解説、そして論考、非常に分かりやすい系図を掲載(高安の具足ももちろん)。
茶道具系で興味深いのは、東山御物の唐物茶入北野肩衝(重要文化財)。貸付金の担保(借金のカタ)を経て三井家所有となっています。幕末に若狭酒井家に譲られましたが、明治以降の酒井家の売立で三井家が買い戻した来歴があります。三井家として愛着があったと思われる茶入。

三井家には高利さんの教えが徹底されていたのか、突出した数寄者と呼ばれた人は見当たりません。禁止するわけではないけれども、分相応をわきまえるようにと。
それは兄俊次としつぐ(1608-1673)の家が関係していると解説されています。俊次は自邸内に能舞台を作り、子に舞わせるほど遊芸にハマった人。その舞った子俊近としちか(?-1702)は商人には不向きだったと。ただし本阿弥光悦ほんあみ こうえつ(1558-1637)以来の物好と呼ばれた京都でトップクラスの遊芸の人。そして家は残念ながら没落。
それを批判的に見ていた高利さん。三井は商いを戦の場と考えていたのでしょう。そのあたりの感覚は、質素倹約を旨とした近江商人や京都の老舗と似ています。


美術系を期待して足を運ぶと、やや肩透かしを食らったかもしれない歴史系の展示。客層がガラリと変わるほどのインパクトを感じました。どちらかというと博物館的。

高安さんが近江から伊勢へと流れていかなければ、織田信長がいなかったら越後屋はなかったかもしれません。三井家が如庵を手に入れたのも織田家ゆかりの茶室ゆえではないかと妄想してしまいます。そんな説はないでしょうけど。


旧財閥系ミュージアム、関東と関西


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