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Ⅰ章 彼の場合⑥

 彼女、水澤千尋の恋は受験が終わる前に終わっていた。
そのことを教えられたのは彼女の受験がひと段落して、あと数日で卒業式というタイミングだった。

「私、東京の大学に行くんだ。来週には東京で一人暮らしだよ」

 僕は、ふぅんとしか返せなかった。入学してから疎遠だったこともあり、校内で顔をたまに合わせる程度だったからだろう。実感も湧かなかった。

「東京だよ、東京。来たら案内してあげる。大学の学食とか東京タワーとかスカイツリーとか。うち泊めてあげるから新幹線代だけで来れるよ」
「東京タワーとかスカイツリーはあんま興味ないけど、学食は食べてみたいなぁ。あとは三四郎池とか行ってみたい」
「夏目漱石のネタだっけ。まだ好きなんだね、小説」
「昔は読んでる最中によく邪魔されたね、そういえば」
「でも楽しかったでしょう?」
「まぁ……。行ってみたらね。新しいことがいっぱいあった…」

「いろいろ連れ出してくれてありがとう」

  僕なりに精いっぱい紡いだ送り出す言葉だった。

疎遠になった本当の理由は、千尋が恋人を作ったことで遠くへ行ってしまったと感じたからだった。

「別れの挨拶にはまだ早いって」と言いながら気丈に振る舞う彼女も想うことがあったのだろう。お互い、それ以上の言葉は出てこなかった。

 彼女が東京に行ってから連絡はほとんど来なかった。夏と冬の休みの間だけ帰省しては、大学のこと、友人のこと、バイトのこと、東京の街並みについて話してくれた。最初の年は元旦も帰ってきたが、2年目に入ると恋人が出来たらしく、夏と冬の休みだけ戻ってきた。

また男か、と思った。灰色の人生を送っていた僕にとって妬ましい反面、羨ましいと思う部分もあったから。また僕の中で『濁った感情』が積もった。

 僕自身は、気が付くと受験期に突入していた。高校選びと違うと感じたのは、そこそこの進学校だったためだろう。皆、自分の人生について考えて勉強を始めていたことだった。「進路」という言葉に明確なイメージを持てず、漫然と自分の行き先を決めきれぬまま年を越した。

 自分の行き先。いよいよそれが分からぬまま1月に突入した時、自分の中で浮かび上がったのが、千尋の笑顔だった。
 僕はそのとき、初めて彼女のことが好きだと自覚した。同時に「あの感情」の意味も。

「まさか大学まで同じだとはね。学科は違うけどわからないことあったら聴いてね。千尋お姉さんが特別に教えてあげる」

 桜が散り始めた頃、僕は彼女と同じ学び舎に入ることになった。入学式やカリキュラムの説明をひと通り終え、食堂で彼女は自信有り気に己の肩を叩きながら、あの辺りはこうで、と喋っている
こっちの気持ちも知らないで。

大学でも友達が出来た。小説研究会にも入り、バイトも始めた。最初の半年こそキツかったが、慣れてからは友人や研究会と同じように千尋とも連絡を取るようになった。

会うのは学食や図書館が多かった。大半は彼女の友人関係やバイト、そして彼氏との話だった。

 恋人の話をしているときの千尋の笑顔が辛かった。
良かった時も喧嘩した時も浮気をされた時の話も全て、最後は決まって笑って僕と別れた。彼女のその優しさが、僕ではない誰かに注がれていることが辛かった。

「聡には全部吐き出せる。ずっと私のことを観てくれる。私の話を聴いてくれる。大切な友達」

本当に、こっちの気も知らないで。

 彼女にとって5回目の東京の春が来る前に、また千尋の恋は終わりを迎えた。相手の度重なる浮気と彼女の積み重なった想い、周囲の批判もあって口論になった末、別れを切り出されたと言われた。

キャンパスの東棟2階にあるベンチ、外では雨が降っている。雨脚が強く、ボツボツと音を立てながら雫のひとつひとつがガラスに当たっては砕ける。

「今まで別れた彼氏みんなにフラれたんだよ、私……」
「相手が見る目なかったんだよ。千尋も見る目がなかったのもあるけどさ」

「そうかなぁ……。どうやったら見る目鍛えられるんだろう……」
「付き合ったことない僕に聴かれてもわかるわけないよ。ただ……」

と言いかけたとき、自分の鼓動が激しくなっていくのを理解した。
次の言葉が出てこない。

「ただ?」

深く息を吸ってから、はぁ…と吐いて今まで気持ちを言葉に込めた。

「次は、千尋のことちゃんと観てくれる人を選びなよ」

そう言うのが精いっぱいだった。

「そんな人いるのかなぁ。聡は見てくれたけど、弟みたいなものだから。ずっとずっと昔から見てくれた大切な幼馴染」

ざぁ、と降る雨をガラス越しを前に、彼女の頬からはゆっくりと小さな涙が下へと流れていく。

「どうしてこうなっちゃったんだろう。私、見る目ないなぁ……」

今までの僕の恋も、千尋の涙も、この雨と一緒に校舎のガラスに砕けて流れたように僕には見えた。

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