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【短編】独占禁止⑷

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きっかけを話す前に、少し昔話をしよう。半世紀以上前のことである。

たった七十年前、街には想像もつかない世界が広がっていた。人々は仮面も外套も頭巾も身につけず、平気で外を出歩いていたのである。辺りを見渡せば、そこには誰一人として同じ格好をしているものなどおらず、全員が各々異なる格好をしていた。

それだけではない。街は決して静寂を保っていなかった。いたるところで、あらゆる音が鳴り響き、生活は音に包まれていた。今では私たちの耳にうるさいまでに入り込んでくる自然音などすぐにかき消されてしまうくらいに、あの頃は街に音が溢れていた。

信じがたいであろうが、私は一つも虚飾を加えていない。これは私がかつてこの目でしかと見た世界である。決してフィクションと思うな。これは真実に他ならない。

しかし、信憑性がないのもまた事実である。叶うことならば、あの頃の様子をできる限り再現し、後世に残したいものであるが、そんな時間は私に残されていない。そもそも、当時の資料はすべて焼き尽くされてしまったのだ。一体何をどう再現できるだろう。仮に過去を記述したとて、歴史の失われたこの世界で、その意味を理解できる者はどれだけいるのだろう。

「Tシャツ」も「デニム」も、「イヤホン」も「スピーカー」も、「赤」も「青」も、「ド」も「レ」も「ミ」も、すべて失われてしまった。あの日をきっかけに、みんな禁句となり、歴史から葬られた。この手記が見つかれば、私も処罰されるだろう。まあ、その時までに私が生きていればの話だが。

とにかく、当時は今とは何もかもが異なっていたのである。そして、それらはある一つの概念に支えられていたのだった。人々はそれを「自由」と呼んだ。

服や音などあくまで一例に過ぎない。実態はそれよりはるかに複雑である。当時はその「自由」のもと、あらゆる行為が許されていた。人々は「自由」に食事を取り、「自由」に仕事をし、「自由」に遊び、「自由」に就寝した。「自由」こそが最も重要な権利だとすら信じられていたのである。

けれども、「自由」はある日崩壊した。あの忌まわしき日を私は忘れない。今思えば、あの法案が成立したということ自体が、「自由」の崩壊を象徴していたのかもしれない。

そうして、新たな概念として「自由」にとって変わったのが、平等だった。それ以降、平等化は異様なスピードで進み、人類は狂っていった。

少し寄り道をしてしまった。時間もない。もう右肘から下の感覚はなくなってしまった。そろそろ本題に戻るとしよう。

きっかけは、ある疫病だと述べたのを覚えているだろうか。それが何なのかは大した問題ではない。なぜなら、疫病は直接の要因ではないからである。

あの頃、人々は仮面をしていなかったと私は言った。誰もが素顔を晒して、のうのうと生きていたのである。しかし、疫病により事態は大きく変わることになる。人々は、疫病の予防のために「マスク」をこぞってつけるようになったのだ。

この「マスク」とは、仮面のことではない。仮面に比べれば、あんなものおもちゃにもなりはしないだろう。空気清浄の機能もなければ、口内洗浄もできない。何より、その形状は顔の鼻から下半分のみを覆い隠すことしかできない心もとないものだった。しかも、仮面のようなロック機能など当然なく、たった一枚の布の両端に耳にかけるため一本ずつゴム紐がつけられただけの簡素なつくりで、すぐに外すことができてしまうのだ。

もしこれが今仮面として売られようものなら、幾人の犠牲者が出るか分からない。どうしてそんなものが当然のごとく売られ、そして実際に広まったのか疑問に思うだろう。しかし、当時はそれで十分だった。

彼らは素顔を晒して生きていたからである。私たちのように顔を隠す必要はなかった。感染を防ぐには布一枚あれば十分だったのだ。

そのため、疫病から逃げるようにして人々は「マスク」を買い漁った。その結果、「マスク」は市場から消えた。

ついで、同じ要領で衛生用品が消えた。すると、疫病への恐怖はさらに人を狂わせた。人々は感染を恐れ、段々と家に閉じこもるようになっていく。そして、恐るべきことが起きた。

ついに、食料が切れたのである。

一瞬だった。

しかし、それまで十分すぎるほどにあった食料はどうして無くなったのか。答えは簡単である。

買い占めが起こったのだ。

みな、不安を抱えていた。外に出ることすらできない状況で、果たしていつまで生きていられるだろうか。終わりの見えない疫病の恐怖に支配された人々は、できる限りの貯蓄を試みはじめた。すると、そこで競争が起こる。今買わないと、二度と手に入れられないかもしれない。そうした不安が、買い占めを呼び起こしたのだった。

幸い、買い占めは一時的なもので、疫病もほどなくして収まった。人々は再び、「自由」な平和へと帰ろうとした。しかし、疫病の不安はその後も禍根を残したのである。

あの買い占めの記憶は、人々の中に強い衝撃となって残留した。自分が助かるためならば、何でもするという醜さ。人間とはこうも汚い生き物だったのかと誰もが驚き呆れた。

そして、その人間の傲慢さを糾弾する人たちが現れた。彼らは徹底的にあの買い占め事件を分析し、その防止策としてある一つのキーワードにたどり着いた。

それが、独占禁止であった。

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