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【老人と幼な子をつなぐ】

新年明けましておめでとうございます。

今年もよろしくお願い致します。


今日、2023/01/05の9:30に新たな着想を得たので、これを機に新年の挨拶と今年の、とは言いませんが長きに渡る人生における抱負の披露せんと筆を執った次第。


その心は、


「お年寄りと幼な子をつなぐ」


日本史上最高の数学者と謳われる岡潔氏や日本近代における評論の確立者と謳われる小林秀雄氏の見識に触れ、


「老人と幼子の接触と継承こそが文化を生み出す」


という思想を折に触れて紹介してきました。ならば、その実践とは?


本年2023年よりは其を熟考し、着想を得て戦略を描き、タスクの細分化をし、現実的優先順位をつけて展望を再構築し、今の自分と能力と立場で出来る最大値を明確化することで、「焦らず、休まず、怠らず」の戒めのもと、日々実践してゆきます。


さて、以下は其にまつわる、よもやまを徒然なるままに。


。。。


とき遡ること昨年末。

帰省ついでに両親と紀州伊都郡へ旅行に赴いたときの事。

久しぶりに見た関西のテレビのワイドショーで知った、「公園廃止問題」

そのコーナーの〆の一言として放たれた落語家さんの言葉。

胸に突き刺さるとともに、一条の光明感じけり。


「子供は確かに五月蝿いかもしれませんけど、騒音ではないですからね」


流石に落語家。

誰を責めるわけでなく、どの立場にも寄り添い柔らかく、しかし自分の考えはハッキリと伝える。自分の意見とはかくのごとく伝えるのだなと、学びました。


そう、誰かを責めたりバカにしたりしたところで仕方がないのです。


そしてやはり、「老人と幼子の接触と継承こそが文化を生み出す」という命題が重くのしかかる。


この問題はまさに老人と幼子の接触と継承の無き社会の構造の中で、永きに渡って少しずつ蓄積されてきた結果としての、まさに文化の崩壊の兆しと言えるでしょう。


さて、昨年知った言葉で


「子供叱るな来た道じゃ 老人笑うな行く道じゃ」


というのもあります。調べてみるに日本に昔から存在する作者不明の言葉らしいですね。これも言外にある子供と老人の間に挟まれる「大人」という存在にたいする訓戒ととれなくもなし。


私達、「大人」と呼ばれる存在はともすれば自らを「主役」とみなし、知らぬうちに傲ってしまうもの。しかし、繰り返し投げかける「老人と幼子の接触と継承こそが文化を生み出す」ということを見るまでもなく我々大人は世界の土台たるべきというのが社会の構造における1つの真理ではないでしょうか?


そう、社会の構造を試行錯誤し最適化する。それが可能な位置にあるのは私達、「大人」だけではあるまいか?


お年寄りと幼な子の背負う文化創造という大命、その成就のための土台を構築し盤石のものとすることは「大人」の大命。


この大命、授かりしことを栄誉に思い微力を尽くすというのもまた、なかなかに浪漫あり。大命のその巨大なればこそ、闘志も湧こうと言うものではありませんか。あくまで、


焦らず、休まず、怠らず


さてまた1つ、昨年感動したこと。


『なごり雪』などでお馴染みのシンガーソングライターのイルカさんがパーソナリティをつとめられるラジオ番組『イルカのミュージックハーモニー』に寄せられた初老の御夫婦のお便り。要約すると以下の通り。


「先日、夫と散歩していると公園で元気にキャッキャと走り回りまわる園児たち。かわいい。私達は子供を持たない人生を選んだ。だからこそかわりに、世界中の子供たちを、我が子だと思おうと。そう、夫と話しました」


号泣しました。


穏やかながら、なんという気宇壮大なる気概か。持つべき美しき気概とはかくなるものと感じました。そして今思えば、このような気概こそが「老人と幼子の接触と継承こそが文化を生み出す」という命題における土台に他ならない。


この人たちは土台を作る立派な気概をもつ「大人」であると同時に、幼な子への継承を通じての文化創造の片翼としての老人としての道も歩み始めておられるのかもしれない。と、勝手に思いました。少なくともこの方々が幼子の遊び回る声をして「騒音」と嘆くところを想像することは出来ぬ。


また、私も離婚し、娘とは離れて暮らしている、独身者。血縁のある子供と暮らしていないという意味ではこの初老の御夫婦と同じ立場。


ゆえにその立場からの偏った見方もまた、間違いなくあるでしょう。


色々な立場がある。


育児する夫婦という立場。

子供を持たぬという選択をした夫婦という立場。

子供はいるが一緒に暮らしてはいないという立場。

結婚もせず子供もいないという立場。

その他、書ききれないくらいには色々な立場あり。


立場違えば、完全には分かり合えぬこともあって当然だが、その隙間を埋めることもまた人間にはできる。それをこの御夫婦は教えて下さった。


また、もしお年寄りが「自らこそが子供たちの教育の真の担い手」としての使命感と気概を持つことができれば、それは大変であり負担かもしれぬが、それはそれで幸福ではなかろうか?とも感じます。


高齢者介護の仕事をして痛切に感じるのは、洗濯物たたみのような日常的な事柄でも、それを「お仕事」として使命感、責任感をもってなされている方々は心身健康で幸福感も大きいということです。


冒頭に掲げた事柄にもつながります。果たして、私が今の自分のまま、今すぐに出来る実践とはなんだろうか?


。。。


ここ数年、やたらに分断という言葉が流行ったように思います。


「立場の数だけ分断がある」


などという冷笑的な見方に一見もっともな説得力に感じ、「現実的見方」という言葉で飾り立てたくもなる。それも人情としてわかりますし、自分もそうでした。


しかし、やはり単なる気概の欠如ではないかとも思うのです。大切なのはそれでも分かり合おうとつとめ、分断の溝を懸命に埋めていこうという気概ではないでしょうか?

考えてみれば立場の違いなど太古の昔からあった。その数だけ分断分断!と叫び、いがみ合っていたなら、とっくの昔に人類は滅び去っていただろう。

なんだかんだで先人達は分かり合ってきたのです。溝を埋めてきたのです。完全ならずとも、最善を尽くしたがゆえに我ら今ここに生きることを許されている。

そして。


先人達にできたこと、我らに出来ぬはずはなし。


「元気があれば何でもできる!」


そう叫び続けた巨星もまた昨年、ついに墜ちました。


逆を取れば「元気がなければなにも出来ない」のです。そして元気を失する理由などいくらでも作ろうと思えば作れるのです。


元気になるための理由など必要ないのです。何も必要ないのです。「あれが必要、これがないから駄目」これをやるから、自動的に不足を見つけ出してしまい元気を失するのです。


唯一、「我、元気也」という気概のみあればよい。まずはそれしかない。それさえやれば見えて来るのです。今の自分のままで元気を作るための道筋が見えてくる。塵の如き要素によって形作られた道筋を一歩一歩、愚直に突き進む。健康においても何においてもそう。最初の気概なくば全ては水泡に帰すのです。


巨星既に墜つ。だからこそ、今を生きる私は気概を持って叫び続けん。


「元気があれば何でもできる!」


と。




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