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岡林リョウ
2020年7月10日 00:00
下宿屋の左を曲がって路地のつきあたりに小さな池がある。溜池の名残だ。緑泥に淀んだ水面には周囲の白壁がぼんやりと映し出され、かすかに月影が光る。前々からこの池がなんとなく気になっていて、つまり好きだった。思い出の香りがする。深酒をして終いの電車を降りふと歩きたくなった。下宿屋を中心としてぐるりをぶらぶらする。三日月の輝きが瞳孔に突き刺さって俯く。飲みすぎてしまった、と販売機の前で小銭をまさぐる。
2020年7月5日 02:23
滅多に握手などしない。ここ1年で恐らく3,4回ほどしかしなかったろう。その中に、弱い握手のかたが何人かいて、その身を案じたりもしていた。うまく言葉が見つからない。しかし音はあくまでアグレッシブで、ひたすら求道的なまでに強く、揺さぶるように、囁くようにひびき、その音があの弱い手から紡ぎだされていたその、余程の気力と、意思と、うまく言葉が見つからない。何かとても、極
2020年7月5日 01:55
「あなたの時計です」ぼくは枕元に置かれた「肉塊」を見た。白い網目状の繊維がうす桃色の地膚を覆い、巡る小さな肉管が紅い液体を循環させて、どくり、どくりと動いている。「・・・過労ですね。暫く外に出しておいた方が良いでしょう」医師は一瞥もせず立ち去った。付き添いの上司が無表情にその後を追う。人間は誰でも同じ時間の中に生きていると思ったら大間違いだ。君には君、ぼくにはぼくの時計があって、そ
2020年7月4日 02:23
・・・何かの影だ。隣人が騒いでいる。駄目だったのだ。影は私の前に座り、一言告げて、消えた。柱時計の長針が、音をたて動く。狭い壁に夕影が、窓辺の人形を映し出す。私は微動だにせず横たわっている。そのうち啜り泣きが聞こえてきた。何か犬の遠吠えの様な、恨み言をいう女の様な、様々な音影が漫ろ歩いて鼓膜に触れては去ってゆく。伝言を伝えに行こうか、行かまいか。今行くのはまずい。際
2020年7月4日 02:10
人間が本当に知覚できる「死」は自分についてのみだなぜなら人間は一度しか死なないのだから。(1999/9記)***必要とされない気軽さについて誰にもあてにされない自由さ。誰にも相手にされない自由さ。(1999/9記)***酒に酔って人を殴るのはサイアクだとゆうが酒に酔わずとも人を殴れる者のほうが恐ろしい(1999/9記)***このアスファルトの下には 無数の草の
2020年7月4日 02:01
もう肉の塊といった呈の裸の老人が、右横を向いて座っていた。灰色のパンツだけを着した姿で、大きな木椅子に腰掛けている。その姿は滑稽というより、神秘的に映った。私が入ってきても何の反応も示さない。側に立つ弟子が厳しい視線を向けてくる。そちらを見ないようにしながら、声を掛けた。「んん」肯きもせず口も動かず、太い首より僅かに張り出した喉仏だけが揺れた。深い瞳は窓外を見詰めている。室内には、爛々と輝
2020年7月2日 02:22
悲しい事があると八重子は川へ行く。都会には珍しい広大な空間がそこにはあって、春陽の穏やかな情景のうちに自分の存在のちっぽけなことを実感できる。何故かほっとするのだ。「八重ちゃん」山田の坊主だった。八重子は少し嫌な顔をする。土手上から草を滑り目前に降り立つ。土ぼこりが舞い八重子は咳きこんだ。「またこんなところへ来てたんか。帰ろうぜ」八重子は山田が苦手だった。「・・・放っといて