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陽傘

悲しい事があると八重子は川へ行く。都会には珍しい広大な空間がそこにはあって、春陽の穏やかな情景のうちに自分の存在のちっぽけなことを実感できる。何故か

ほっとするのだ。

「八重ちゃん」

山田の坊主だった。八重子は少し嫌な顔をする。土手上から草を滑り目前に降り立つ。土ぼこりが舞い八重子は咳きこんだ。

「またこんなところへ来てたんか。帰ろうぜ」

八重子は山田が苦手だった。

「・・・放っといて。何よ傘なんか持って、馬鹿じゃない」

大きな蝙蝠の柄をくるりと回すと山田は笑う。

「きのう持って帰るの忘れたんだよ。さあ行こ、団子買ったげるから」

これだから嫌なのだ、年下のくせに。

「要らないわ。一人で食べたら良いわ」

八重子はついと川の方を向いて、銀砂のきらめく水面を見つめる。山田の存在を消し去ろうとするが、却ってもやもやしたものがわだかまっていくばかりで、仕方が無い。振り向くとニコニコ笑ういがぐり頭が指を上げた。すかさず擦り抜けると土手を駆け上る。山田は慌ててついてきた。

「待てよう」

八重子は少し可笑しくなる。道路を横切って土手筋の茶店に向かう。醤油の焦げる匂いが鼻を突き、

「おばちゃん」

網のむこうで眼鏡が揺れた。

「ああ、八重ちゃん。また来てたの」
「・・・はあはあ、オバチャン」
「まあ秀ぼうも」

情無く肩を揺らす山田を見て八重子は嬉しくなる。網上の焼き団子を取ると、いがぐり頭に無造作に突き出す。

「あたし払うから。おばちゃん、2本ね」

小銭を払おうとして右手を出す。すると脇から素早く伸びた山田の左手に当たり、思わず引っ込めた隙に、おばちゃんの手に投げ込まれたのはいがぐりの方だった。咥えた団子をくちゃくちゃ鳴らしながら、先立って歩き出す山田の背中に、八重子は舌を出した。

陽の傾いた木陰みちを並んで歩く。二つの離れた影が小路を揺らしている。もう長いこと静寂の続いたあと、山田がやけに神妙に口を開いた。

「・・・八重ちゃん、今日は何があったんだい」

「あんたには関係ない」

陽子の荒んだ眼差しが頭をよぎる。それを消し去るように首を振った。

「俺で良ければ、何か・・・手伝うよ」

陽子の蔑んだ口元の記憶が、不意に右目の涙腺を打った。

不覚だった。

そこへ、ぶしつけな目玉が覗き込んできた。

「・・・泣くなよ・・・」

八重子は大声で言い放つ。

「泣いてなんかない!あんたなんて嫌い!」

走り出した。山田は少し追いかけてきたようだったが、気が付くと橙色の中に消えていた。しばらくいがぐり頭を目で追うが、引き離してしまった事を悟ると、下を向いた。

左目からも雫が落ちた。

そのまま、ひとしきり泣いた。

ふと足元が暗くなる。はたと顔を上げると、傘をさしかけた山田がいた。

「天気雨だよ、可笑しいね」

何を言っているんだろう。雨なんか降っていないのに。でも八重子は少し嬉しくて、こくりとうなづいた。

再び並んで歩く。大きな丸い影がひとつ、小路を滑ってゆく。

「八重ちゃんは、泣いてなんかない」

うん、とうなづいた。意味は分からないけど、少しあたたかい気持ちになった。

「雨が降ったんだ。でも、明日になればきっと晴れる」

小路が左に曲がると大きな楠の樹がある。そのうしろが八重子の家だ。山田は傘を降ろすと言った。

「そら、晴れたよ」

八重子はいつのまにか山田の横顔を見ていた。

「また、明日な」

そう、明日。明日はきっと違う日になる。

・・・生意気な子。

八重子は去りゆく山田の背に舌を出した。傘がぶらぶら揺れながら、垣根のむこうに消えていくまで、舌を出したままでいた。

(2000年2月記)

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