見出し画像

風化するチェルノブイリ

 「チェルノブイリに行きたいんだ」。2018年7月、キエフのレストランでウクライナの女性2人に旅の目的を伝えると、「いいと思いますけど怖くないですか」と、流暢に日本語を操りながらともに曇った表情をみせた。

 20代前半と後半の彼女たちは日本とウクライナの文化交流施設に通っていた。ここは長期旅行者の間で知られた施設で、昼間に足を伸ばしたところ、日本人の男性職員に夕食に誘われて同席していた。ネイティブの言葉は聞き取りにくいだろうと思い、最初はひとつひとつの単語をはっきり発音するように心掛けていたが、「ゆっくり話さなくていいですよ」と早々に断りが入った。

 勝手知ったる日本語でチェルノブイリの情報を得られるチャンスだと思ったが、彼女たちの反応は芳しくなく、幼いときに学校教育で習ったという程度の知識しか持ち合わせていなかった。

 「除染作業で放射線量は下がっている」。「ツアーなら立ち入り禁止区域に入れる」。こちらの予備知識を披露しても、異口同音に「私は行きたいとは思わない」。長年キエフに暮らす日本人職員が話題を引き取り、その理由を「単純に興味がないんだと思う」と解説してくれた。

 それなら「キエフで面白い場所はどこ?」と聞くと、答えは教会や史跡といったガイドブックに載っている観光地ばかりだった。口には出さなかったけれど「ヨーロッパの他の都市と変わらないな」と思った。以降の話題は漫画やアニメといった日本文化が中心で、オリジナルの無声漫画を読まされたり、日本で暮らす婚約者ののろけ話を聞かされたり。期待は空振りに終わった。

 彼女たち以外のウクライナ人に旅の目的を伝えても返ってきたのは否定的な反応だった。ゾーンと呼ばれる原発から半径30キロ圏内の立ち入り禁止区域に、当局の許可を得たツアーに参加すれば入れることを知らないキエフ市民も多かった。

 「日本には広島、長崎、福島があるのになんでチェルノブイリに行くんだ。放射線が好きなのか」。酒に酔った初老の元ソ連軍人はブラックジョークを飛ばしていた。

 キエフには10日間滞在した。チェルノブイリの知識をひけらかしてみたものの予習が足りなかった。2、3日もあればツアーに参加できるだろうと簡単に考えていたが、初日に同宿のハンガリー人男性に「予約はしているのか? 1週間くらい待つぞ」と言われて気づかされた。翌日ツアー会社に足を運んでみると、やはり予約は埋まっていた。ウクライナの後は東欧諸国を巡る計画だったが、長期旅行に脱線はつきものと考えてしばらく腰を落ち着けることにした。

 キエフに長居することが決まり、まず取り組んだのは宿の引っ越しだった。2泊3日で予約していた最初のホステルは朝食付きで中心部の独立広場に近かったけれど、居場所がベッドの上しかなかった。特にキッチンのテーブル席は2人分しかなく、ベッド数に対して圧倒的に不足していた。

 次の宿は当たりだった。2階建ての民家を改装して1階部分を宿泊客に開放したような造りで、2段ベッドが並ぶドミトリールームの他に、ソファーとテレビが置かれたリビングルームと、冷蔵庫や電子ケトル、食器が自由に使えるダイニングキッチンがあった。ホステルの良さは、価格が安いのはもちろん、個室のホテルに比べて居場所が多い点にあると思う。そうはいってもプライベート空間はベッドの上だけなので同宿者との相性の良し悪し、例えばいびきとか、酔っ払い具合とかに左右されるのだけれど、自由に使えるスペースが広ければ広いほど、居場所が多ければ多いほど快適性は向上する。

 散策を終え、夕食を済ませ、寝るまでの間、リビングルームのソファに座ってネットサーフィンをしていると、はす向かいに座っていた白髪ロン毛のイギリス人の中年男性が自身のパソコンから日本人作曲家のインストルメンタル曲を大音量で流し出した。それはひと昔前に日本でヒットした耳馴染みの曲で、彼に視線を送ると、私が日本人であることを理解したようだ。彼は「グッドソング」とサムアップしてきた。

 地下鉄や路線バスのスマートフォンから。首に掛かけただけのヘッドフォンから。ひと昔前なら肩に載せたラジカセから。外国ではパブリックスペースであってもお構いなしにお気に入りの音楽を流す光景をみかける。観光地の夜は長く、所違えば文化が入れ乱れる。しばらくの間、リビングルームのBGMはニューヨーク在住ミュージシャンのメドレー集に占拠された。

 テレビから日本語が聞こえてきた夜もあった。画面の中では金髪碧眼の女性と黒髪黒目の女性が話していた。日本文化を紹介する番組のようでもあり、日本語を学ぶ教育番組のようでもあった。私の隣でリモコンを操っていたのは20代半ばのウクライナの女性2人。それまで言葉を交わしたことはなかったけれど、どうやら彼女たちは日本に興味があり、隣に座る東洋人の反応を間接的に確かめていたのかもしれない。しばらく画面を見つめていると、私の国籍に確信を得たようでつたない英語で話しかけてきた。

 彼女たちはウクライナの地方で暮らしていて、近く開催されるアメリカのミュージシャンが出演する音楽フェスに参加するべく首都に遊びに来ていた。ひとりは髪を赤く染めたいかにもロックが好きそうないで立ちだった。もう一人は黒髪に黒縁メガネで、一見おとなしそうだったけれど、よく見ると毛先だけ青く染めていた。

 赤髪の彼女は「時間があったら日本語を教えてほしい」と話した。私は「オーケー」と快諾したのだけれど、その日は夜遅かったので男女別のドミトリールームに戻った。翌日、翌々日も顔を合わせたが、あいさつを交わすだけだった。互いに気を使いすぎていたのだろう。ついぞ日本語教室が開かれることはなく、音楽フェスは終わり、彼女たちは地元に帰っていた。

 先客のひとりに腕も胸も腹も太くて常にタンクトップにのショートパンツの男性がいた。彼とはベッドが隣で、最初に入室した際にあいさつしを交わしたものの、その後は素っ気なかった。どうやら長期滞在者のようで、2、3日で入れ替わるだろう隣人と仲良くする気はないというような態度だった。それでも毎日顔を合わせているとしだいに言葉を交わすようになり、玄関前のベンチに座って夕涼みがてら一緒に煙をくゆらせるようになった。

 彼はトルコ出身のITエンジニアと自己紹介し、1カ月ほどキエフに滞在して職を探していた。私は旅の目的を話し、チェルノブイリツアーの予約日まで滞在していることを伝えると、素っ気なかった態度の理由を明かしてくれた。彼曰くウクライナは欧州最貧国で、西側の先進諸国から買春ツアー客が頻繁に訪れるのだという。この宿にも買春目的の旅行者が滞在することがあり、その度に「良い情報はないか?」と聞かれてうんざりしている―と話した。

 そして私には買春情報ではなく、近所のスーパーマーケットやファストフード店、食堂の場所を教えてくれた。彼が教えてくれた食堂はロシアやカザフスタンでも世話になった、指さし注文できるスタローバヤと呼ばれる大衆食堂で、独立広場の地下にあった。彼に教えてもらう前にすでに見つけていた食堂だったが、長期滞在者のお墨付きを得たことで利用頻度が上がった。

 食堂までは徒歩20分ほどだったけれど、暇な観光客にとってはちょうどよい距離の散歩コースだった。スープにボルシチかサリャンカを取り、メイン兼主食のプロフに、サラダを付けても1食500円以下と手ごろだった。手製のサンドイッチにインスタントスープというさらに安上がりな夕食の食材が切れるたびに立ち寄った。

 独立広場に向かう石畳の下り坂はごつごつでこぼこで歩きにくかったけれど、通り沿いの同じ色の建物と調和していた。行きはよいよい帰りはそれなりに大変だったけれど腹ごしらえにはちょうどよかった。雨が降ると通り沿いの店舗の軒先に雨宿りしなければならなくて散歩時間はさらに伸びたけれど、夕空には虹がかかり、薄暮の街並みに映えた。

 キエフにチェルノブイリの影はなかった。


 日差しがまぶしく、体感温度は30度を超えていた。集合場所の独立広場は日陰が少なく、放射線対策で義務付けられた長袖長ズボンが汗ばんだ。

 日帰りツアーの乗客は15人。国籍はハンガリーやチェコ、ニュージーランドで、東洋人は私だけだった。ウクライナ人は女性ガイドと男性運転手の2人。大半は私同様の格好だったが、放射線よりも暑さに素直なTシャツの人もいて服装規定は厳密に運用さていなかった。

 30歳前後にみえたガイドは「ターニャズ・グループ」と第一声を発してツアー概要を説明した。複数のツアーが独立広場を発着地点にしているために自身の名前を冠して他と区別しているのだろう。彼女の英語は理解できない部分も多かったけれど、声は明るくはきはきしていて、福島第1原発以前に史上最悪の事故を起こした場所にこれから赴くという物々しさを感じさせなかった。

 マイクロバスに乗り込んで後方に腰かけた。ターニャは乗客の頭数をひとりずつ確認しながら近づいてきて、私の前まで来ると名前をしっかり呼んでからガイガーカウンター(放射線測定器)を手渡した。ツアー料金にいくらか上乗せして事前に申し込んでいたのだが、欧米人の間でこのオプションは一般的ではないようで、受け取ったのは私だけだった。

 バスは幹線道路を北上した。道路脇は市街地から草地に変わり、舗装がはげ始めると木々が立ち込め、その密度は濃くなっていった。運転席付近では冷房がきいていたのかもしれないが、後部座席までは届いてこない。長袖をまくり、窓を開け、ガイガーカウンターを試しに起動させながら1時間半のドライブをやり過ごした。

 チェックポイント前には大型バスやマイクロバスの待機列ができていた。この先は立ち入り禁止区域。パスポートチェックを受け、注意事項が書かれた書類にサインし、ゾーンに入った。

 最初に訪れたのは小さな集落だった。打ち捨てられた自動車は赤い塗装が錆びて剥がれ落ち、伸び放題の雑草に埋もれていた。平屋建ての家屋は屋根が中央から崩れていて、手入れが行き届くはずのないかつての庭木に覆われていた。

 ターニャが骨組みを保った建物を案内した。ささくれだった扉は蝶番から外れて傾いていて、半身になって通り抜けた。木漏れ日まぶしい外気に反して室内は薄暗く、破れた窓から風が吹き抜けて汗が冷えた。顔にかかる蜘蛛の巣を払いながらいくつかの部屋を見て回った。

 窓枠には仔馬の人形が座っていた。別の窓枠には子供の靴が置かれていた。ターニャが写真映えを狙った観光客の演出だと説明した。ガイガーカウンターをかざしてみると放射線の数値はキエフ市内と変わらなかった。触れようと思えば触れることができる。光の当たり具合をコントロールするために。構図を整えるために。それでも、ほこりっぽいからか、サンゴ礁や岸壁にサインを残すような感覚を持ち合わせていないからか、手を伸ばす気にはならなかった。

 はがれた床板は反って盛り上がり、あるいは完全に床が抜けてレンガ積みの基礎があらわになっていた。レンガに支えられた梁の上を大股で移動した。演出なのか事故後の混乱なのか、床下には書類が散乱していて、淡く発色したポートレート写真や白黒の楽譜がそれと分かるようにこちらを向いていた。食糧庫だったのかもしれない。大量の緑色の瓶が割れて折り重なっていた。

 頭の中をうまく整理できなかった。

 1986年にチェルノブイリ原子力発電所4号炉が事故を起こした。事故が公表され、住民たちは退去した。着の身着のままだったのか、あるいはしっかりと荷造りをしたのか。荷造りをしたとしてもそれらはすでに汚染されていたはずで、いずれ廃棄しなければならなかっただろう。建物が、車が、人形が残された。2011年に観光客の受け入れが始まり、人形が座らされ、靴が置き直された。事故の悲惨さを際立たたせるために。目の前の光景には知らない誰かの作為が混在していた。

 ニガヨモギの星公園は正常だった。ゾーン内にあってここは廃墟ではなく、事故後25周年を記念して建てられた。鉄骨の天使がラッパを吹く彫刻、避難対象になった集落名の標識を連ねたオブジェなどが展示されていた。園内の博物館には朽ちた集落の写真や被災者の写真をコラージュした絵画作品が並んでいた。天井からは乳母車やゆりかごが吊り下がっていた。これらの作品を理解するには芸術的な素養や専門家の解説が必要だったけれど、展示物と観光客の間には1対1の関係が成り立っていた。

 数日前に訪れたキエフ中心部のチェルノブイリ博物館も正常だった。1階のエントランスホールには福島第1原発事故を伝える記事や写真が展示されていた。日本を印象付けるための演出なのだろう。こいのぼりや提灯が吊り下がり、西洋風な顔立ちの子供のマネキン2体が紋付き袴と浴衣を着て並んでいた。展示室に上がる階段には、ニガヨモギの星公園と同様の集落名が記された標識が吊り下がっていた。展示室は発電所内をイメージしているのだろう。照明は暗く、天井には白や灰色のたゆんだホースがはっていて、防護服や消防服が宙に浮いていた。壁には被災した人たちの顔写真が並んでいた。放射線の影響で亡くなったのかもしれない。いくつかの写真には原子力マークが付いていた。ガラスケースの中には書類や図面、新聞記事、衣服、ガイガーカウンターが収められていた。

 メインのインスタレーションは教会を想起させ、門扉の左に翼が生えた天使の絵、右に防護服、これらに挟まれた中央の入り口部分は原子力マークでふさがれていた。扉の向こうには木製の小舟が鎖で吊り下がり、熊や馬、うさぎなどのぬいぐるみが隙間なく乗せられていた。

 半そで半ズボンの見物客は展示物に手を伸ばさない。英語の解説は添えられていなくて、キリル文字の記事は読めなかった。それでも赤や紫、黄色といった照明の演出効果によって事故の悲惨さ伝えようとしていることは十分理解できた。

 ゾーン内のプリピャチは違った。かつて原発作業員とその家族たちが暮らしていた町は廃墟だった。

 遊園地はオープン前に被災し、子供たちが利用する前に役目を終えたという。どこもかしこも錆びていて、観覧車は風が吹くとギコギコと音を立てて揺れていた。ツアー客のひとりが飛び上がり、低い位置のゴンドラに手を掛けて金属音を響かせた。ターニャが大声を出して注意した。ひとりがたがを外すと追随する者がいる。誰かが置き捨てられたゴーカートを蹴って押し動かし、ターニャの仕事が増えた。

 学校の理科室だったのだろうか。黒板は白いチョークの文字で埋められていて、教壇机の上には実験中だったかのように秤やビーカーが置かれていた。

 不自然なほどガスマスクに埋め尽くされた教室があった。机の上にはガスマスクを組み合わせた簡易オブジェが飾られていた。

 体育館の床板は灰色に変色して背丈ほどに反り上がり、ゴールが外れたバスケットボールのバッグボードが壁に残され、黒いアルファベットで落書きされていた。

 プールは2段の飛び込み台が設けられた立派な造りだった。水が張られていれば水面下のはずの壁面には黒いスプレーで落書きされていた。

 5階建ての集合住宅を階下から隈なく歩いた。取り残されたベッドマットは破れてスプリングがむき出しになっていた。壁面いっぱいの茶色い飾り棚はどの扉も開け放たれていた。バスルームには便器とシャワーホースが残されていた。ひとつの部屋に入り、次の部屋に入り、しだいに外から部屋の中を覗くだけになり、すべてを見たというアリバイをつくるかのように、階上へ移動するだけの作業をこなすように歩を進めた。情報量が多すぎた。歩き疲れて思考がうまく回らなかった。ひとつひとつの部屋にかつて人が暮らしていたことをうまく想像できなかった。

 屋上は水はけが悪くて水たまりができていた。汚染されないように乾いた場所を探しながら歩いた。冬だったらこんな風に思わなかったかもしれない。眼下には深緑の雑木が生い茂り、朽ちた集合住宅群を飲み込もうとしていた。取り残された人工物と、成長を続ける植物のコントラストが鮮明で、止まった時間と現在進行形の時間が同じ空間に存在しているようだった。

 管理された廃墟を廃墟とは呼ばないのかもしれない。手を伸ばせば触ることができるからこそ、誰かの作為が入り込む余地があるからこそ生々しさを感じて心がざわつくのかもしれない。

 訪れた先々でガイガーカウンターを作動させた。どこも除染が進んでいて放射線量はキエフ市内と大きく変わらなかった。それでもターニャは観光コースに点在するホットスポットを把握していて、彼女にならって水たまりやぬかるんだ地面を計測すると、ときどき警告音を発し、そのたびに背筋が反応した。放射線の脅威を伝える甲高いデジタル音は、現実離れした廃墟の中で異質に響き、それゆえに正気を取り戻すかのような確かさを感じた。

 事故を起こした4号炉は、新石棺と呼ばれる金属性のシェルターで覆われていた。廃墟を形成する朽ちた建物群に比べて真新しく、無機質な印象を受けた。新石棺前に建てられたモニュメント付近の放射線量はやはり高く、ここが事故現場であることを教えてくれた。

 チェックポイントに戻り、高さ2メートルほどの放射線測定器に体を預けた。数秒後、ターニャが「ユー・アー・クリーン」と声を掛けてくれ、肩の力が抜けた。もしもホットスポットに足を踏み入れていたら靴を捨てなければならず、場合によっては服も着替えなければならない。知らず知らずのうちに緊張していたことに気づかされた。

 ゾーンから出て、ターニャに聞いた。「このツアーはウクライナ人にもポピュラーなの?」「チェルノブイリに行くと言ったら、なんで? 怖い。行きたくないって言われたんだ」。

 彼女は放射線の恐怖を煽ることなく、廃墟になった町の様子や廃炉に向けた状況を淡々と説明しながらツアーを進行していた。

 「ウクライナ人もたまに来るけれど、その問題は知っている」「私たちの仕事は真実を伝えていくこと。今日のツアーは怖くなかったでしょ」「一般のウクライナ人にとってはツアー代金は高額なのよ」。そう教えてくれた。

 新石棺の近くでは廃炉に向けた作業が続いている。キエフ市民はそれを傍観することしかできず、130キロ離れた首都で日常生活を送っている。健やかに日常生活を送るためには忘れることも必要なのだろう。キエフ市民にとってチェルノブイリは健全に風化していて、それゆえに非日常を求める観光客の視点と彼ら彼女らの視点は交差しなかった。

 2023年。キエフのカタカナ表記はキーウになり、チェルノブイリはチョルノービルに変わった。キエフで出会った彼ら彼女らともっと言葉を交わしておけばよかった。キーウに再び日常が訪れ、いつの日か新たな悲劇が風化することを願う。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?