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No.20 鍛える1年  クリスマスと年末/スマートドラッグなどの是非/バイト/アイヒマン/それでも夜は明ける/きっとうまくいく

*雑念日記(大学生の)
ー クリスマスと年末/スマートドラッグなどの是非/バイト/
*今週の読書
ー 現代・アメリカ・映画
*今週の映画
ー アイヒマン/それでも夜は明ける/きっとうまくいく
*その他、、、
では、どうぞ ( ´ ▽ ` )ノ


雑念日記(大学生の)


But love is blind,
and lovers cannot see the pretty follies that themselves commit. 

Shakespear

恋は盲目で、恋人たちは自分たちが犯す小さな過ちに気づけなくなる。


♦バイトで過ごすクリスマス。バイトで過ごす年末。これも1つの経験だね。最近、僕のバイト先に受験を終えた高校生が2人入ってきた。どちらも男の子で、やはり高校生というのは素直だなぁと感じている。色々な作業を同時並行しながら、気を配らせながら、働かないと追い付かないくらい忙しいんだけど、彼らは頑張っている。

僕は、できるだけ自分から教えないようにしている。彼らの方から聞いてきた時は、もちろん答えるけれど。なんか、それが一番良い気がして生きた。特に彼らは仕事に対する意欲がとてもあって、前向きな姿勢だから僕の方からあれこれ言うよりも、自分で色々考えた方が楽しいし充実感が得られるのかもね。

高校生たちと話してみて思うのは、僕は他の人と話すときに相手の年齢をあんまり気にしないんだなぁということ。大学の同期に30歳を迎えた方がいるんだけど、上から下までで歳の差が約10歳あるが、どちらと話すときもあまり深く考えずに話が運ぶ。これは僕の強みなのかもしれない。

高校生たちと話してみて驚いたのは、修学旅行が2度も延期になったということ。コロナのせいで。なるほど。コロナ世代はかなり被害を被っているな。可哀そうだと正直思った。大人たちは・学生たちはすいすいと旅行を楽しむ一方で、二度と帰らない青春時代の修学旅行という一大イベントが壊されているなんて。確かに、全員が全員行きたいわけじゃないと思うけれど、それでも。。高校生の時に修学旅行先で体験した記憶というものは後になっても鮮明によみがえる貴重なもの。高校生たちは、本当に色々な苦悩を背負っているなぁ。。

しっかりしているのも、その要因がいくらか作用しているのかな?


♦高IQの苦悩。

IQ130以上と70以下は全体の約2%ほど。大半が100前後に収まる分布の形を取る。全体の約2%は社会からすると不適応と見なされてしまう。もしくは、社会が醸し出す”ふつう”の雰囲気についていけない状態になってしまう。IQテストという知能を測るための1つの指標が作られたことで、その苦悩が可視化されるようになり、認知されるようになってきた。


♦今まで、noteを書くときはnoteに直書きしていたんだけど、文字のフォントが大きいからか、ちょっと書いただけで結構書いたなぁ~と満足して思考が停止してしまうことが何度があった。そこで、一旦notino の方で文章をまとめて、それをコピペする形で残していくとスッキリと文章化できるのではないか?という仮説が生まれた。特に映画に対する考察に関しては。実験してみよう。

♦年末年始は生活リズムが大きく崩れてしまう。にもかかわらず、顔にできものができていない。これは不思議である。通常、疲れがたまってくるとできものが発生する体質なんだけど、生活リズムが崩れている今は逆にそれが発生しない。やはり、僕の体は夜型が向いているのか?


♦エンハンスメント=スマートドラッグ・記憶増強剤など、神経に働きかける課金

エンハンスメントが良いのか悪いのかを決める際に重要なのは僕たちが将来どのような暮らしをしたいのか、どのような社会を望むのかに左右されると思う。人として生きたいのであれば、人間らしい暮らしをしたいのであれば、私はエンハンスメントに反対である。ここで言うエンハンスメントとはマイナスからゼロへと向上させるものではなく、プラスからプラス、ゼロからプラスに向上させるもののことだ。エンハンスメントとは不確実性を取り除き均一化の方向へと作用するが、果たしてその先に幸福は待っているのだろうか。今でさえもお金を払えば受けられるサービスが無数に存在してはいるものの人々の顔は幸せそうだろうか?個人的には皆ゆったりと歩くように暮らしているのではなく、左右に並んでいる人をチラチラと横目で見ながら「負けてはいけない!」というレースをせかせかと走っているように感じる。そこにスマートドラッグやステロイドなど薬物が介在してくるとどうだろう。私はそっちの奉公に社会が進んでいくのではなく、ゆったりと歩くように暮らせる社会に変わっていく方向に進んで欲しいと思う。

♦どうにかこうにか、後期の壁であるスペイン語のテストを乗り切った。やる気が起きるはずが無く、前日まではあえて勉強をせずに、そこからやらないとヤバいよ!という焦燥感に身を任せて一気に勉強を開始した。結果が良いのか悪いのかはまだ分からないが、及第点を取れていることを切に願う限りである。。

そして、そこから高校時代の部活仲間と約1年ぶりに再会した。のつもりが、1人が急遽来れないということで1人欠いた状態だった。外見は多少なりとも変化しているものの、やはりその人が持っているオーラは全く高校の時と変わっていなかった。それが良いのか悪いのかはさておいて。彼女ら彼らから見た僕はどのように映っていたのだろうか。高校と同じ印象を受けたのだろうか。

過去についての話はあまり無く、むしろ今何をしているのか?これからどうしたいのか?など前向きな話題が多かった。それは非常に良かったと思う。皆があの時から立ち止まっているのではなくて、それぞれの道を歩んでいる感じがして。恋愛の話もし、流石にそろそろ。。という緊張感が漂ったりもした。昔の仲間たちとはこれくらいの頻度、年に約1回集って話すのがちょうど良いのかもしれない。過去にとらわれず、それでいてみんなのリニューアルした考えを共有し合えるという意味においては。

話す内容はかつてに比べると、全く異なったものばかりで、話し方も違っていたけれど、その場の雰囲気はあの時の和やかさを感じさせてくれて、、久しぶりにこういう時間を過ごせて純粋に良かった。1人来れなかったから、次回は全員集いたい。そして、自分自身もその時までに何か変革を起こせていたら良いと思う次第である。

♦バイト先の人数のマイナスが埋まらない。冷静に考えて、バイトの面接時に~曜日の~時から働けますと申告し、その申告に基づいてシフトを固定で入れ、何かあった時に変動できるようにしておけば、マイナスが出ることなんてそうそうないはずなんだが。それなのに、マイナスが毎日のように出ている現状。

確かに、確かに飲食店の中でもしんどい部類に入るであろう内容だし、給料ももっと欲しいと思う。それでもなお、これだけマイナスが生まれてしまうのには何か必ず理由がある。考えられるものは

まず、
・労働に見合った給与が支払われていない。
・バイト先のコミュニティ運営が上手く行ってない。バイトと社員、バイト同士の仲の良さ。
・シフトに入らなくても良いという安心感。逆に言うと権威の無さ。

か?正直、1番目の理由が半分以上を占めているだろう。バイトの皆に聞いてみても、時給がもう少し上がれば入るのに。。と口を揃えて言うのである。今提供している料理の値段を100円上げたとしても来る客の数はあまり変わらないように思う。それならば、全商品の値段を100円上げ、それを人件費に還元すれば良いのではないか?それとも、稼いだら稼いだ分だけ、税金を払わなければいけず、結局のところ元も子もないのか?

立地は完ぺきだし、客足も途切れない。なのに、店側の問題でせっかくのお店運営に支障をきたしてしまうのは非常に良くない。時給1000円で満足してはいけないのである。

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唐突な可愛い画像っ!!😳
集中力高めるには良いらしいっすよ~


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今週の読書

♦現代・アメリカ・映画

アメリカの1990年代の映画を製作した監督について、考察した一冊。監督の癖や表現したい事を映画から読み解いていき、人間性や興行性も交えながらサクッと説明。半分以上、観たことのない映画を扱っていたので、自分の映画経験の無さを痛感した。一方、こんな映画もあるんだ!と新たな世界も広げることができた。この本で気になった映画は全て観ようと思う。

そして、映画熱を徐々に高めていきたい。


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今週の映画

♦アイヒマンの後継者 ミルグラム博士の恐るべき告発

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本映画はミルグラムが行った服従実験の様子を映像化すると同時に、それに伴う周りからの批判や社会の反応、また服従実験以外のいくつかの社会的な現象を紹介するものであった。印象的だった言葉は「人々は全体より部分を見ている。職は専門化・分業化され、人々は常に上からの指示で行動する。」というものであった。社会システムの変化に伴う個人の価値観の変化と服従という現象を絡めながら考察している。服従をしてしまう個人のみが必ずしも悪いわけではなく、取り囲む状況も十分考慮しなければいけないということを暗に指し示しており、心理実験で観察される効果はその時の時代背景や社会システムも念頭に置かなければいけないと考えさせられたからだ。そのうえで、アメリカのみならず他の国でも追実験を行うのはどうかと提案がなされており、私としては上下関係が存在する社会に暮らしている人々はみな、例え学習者が悲鳴をあげていたとしても電気ショックを最後まで与え続ける割合が高くなるのではないかと思った。しかし、実験室での虐待行為を大量虐殺に加担するのと同一視していることに対しての疑問は本作で語られており私も感じた。戦争という道徳が崩壊する異質な状況と現在私たちが暮らしている状況とを比較することはほぼ不可能に近いからだ。ただ、このような実験を当時行った新奇性は素晴らしく、後世にまで様々な物議を醸していることが服従実験の重要さを表していると感じる。映画終盤で言われていた「人間は知覚を持った人形。しかし、その糸に気づければ自由へと続く道の最初の一歩となる」という言葉は心理学で色々な事象を解明していこうとする行為の意味を一つの例として与えてくれており、なぜ人の心を探っていくのかという疑問を抱いた時思い出したい一節である。

彼が電気ショックを受け続けた責任は誰にある?

というセリフが、現代にも起こり得る様々な残虐行為にも言えるだろう。個人が責任を取らなくなった今、責任逃れは容易に起こり得る。だからこそ、当事者意識が薄れ、それが積み重なっていき、溜まりにたまった吹き溜まりが一気に爆発してしまうと取り返しがつかないことになる

人々は全体より部分を見ている。専門化・分業化された職。人々は常に上からの指示で行動する。それを「代理人状態」と呼ぶ。自分の仕事をしただけ、私の仕事じゃないという責任逃れ。



服従実験の種類は25種類もあったのか!?学習者が無言で壁を叩く音のみが聞こえる、叫び声のみが聞こえるなど様々なレパートリーが用意。できるだけ剰余変数を無くしていき、比較できるように実験デザインを考えればこれくらいは必要なのか?


わからいのは、
実験室での虐待行為を大量虐殺に加担するのと同一視していること

確かに。


人生は後ろ向きに理解して、前向きに生きるもの 
キルケゴール
人間は知覚を持った人形。
その糸に気づければ自由へと続く道の最初の一歩となる


♦それでも夜は明ける

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1841年に誘拐され、奴隷として売られた自由黒人のソロモン・ノーサップの奴隷体験記。体験記ということは、観客は彼に感情移入できるように思えるが、カメラがソロモンにクローズアップするショットは少ない。むしろ、誰か一人に焦点を当てるのではなく、人物の後ろにいる人や風景にまでピントが合わせられ、かつ背景に移りこむ人物に動きがある。そのため、ソロモンの視点で映画を見るのではなく、ソロモンが受けた痛みをガラス越しに客観的に見るような体験を伴うのが本作である。

冒頭のサトウキビ畑に集められた人たち。後ろには背が高いサトウキビが並び、前には人が並ぶ。「フルメタルジャケット」を連想させる。人間はサトウキビのように均一な存在であり、そこに個性は必要とされない。

以下、カメラワークについて言及されている

撮影のショーン・ボビットは、クローズインとロングのカメラワークを駆使し、連続ショットによる緊張感を演出。「映像的トリックは必要ない。カメラは観客に目撃する機会を与えるためにあるんだ」と語るボビットは、ソロモンの首吊りやパッツィーの鞭打ちという、実にショッキングな出来事を、できる限り近くで撮るように心掛けた。首吊りシーンは、いくつかのショットで撮影し、緊迫感が増していくように編集され、対照的にパッツィーのシーンは、ロングのシングルテイクで撮影。ボビットは元戦争ジャーナリストとして、常にカメラを自分で操作する。これによって、観客は恐ろしい出来事に参加しているような臨場感を持つ。「ここはノーカットで撮ることに決めた。その結果、観客はリアルタイムで登場人物と生きざるを得なくなる。願わくば目の前で起きていることの狂気を感じてほしい」とボビットは語る。 ↓

観客は観客としての立場で本作を観る。それをより強調するためか、かなり残虐なシーンも映し出されている。ソロモンが紐で吊るされているシーン、パッツィーが鞭を打たれるシーン、など。これは直視できない人もいるだろうが、実際に行われていたと考えると、やはり人間の残虐性は想像を遥かに超えていく恐ろしいモノだと感じる。

ソロモンが吊るされているシーンで後ろに映る他の奴隷たち。パッツィーが鞭で打たれているときに後ろに映る他の奴隷たち。とにかく、誰か一人にフォーカスするのではなく画面全体に色々な人が入り込んでくる。本作に正しい人はいない。主人公もいない。社会という存在が全ての道徳倫理となり、主人公である。

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1800年代、まだ奴隷制度が色濃くのこるアメリカ。1808年、合衆国全体で奴隷貿易が禁止された一方、国内で奴隷を調達しようとする動きが活性化。自由黒人たちを拉致し、奴隷として売ることでお金を儲けようとする輩が現れる。本作の主人公であるソロモンも自由黒人であり、バイオリニストととして暮らしていたが、パーティーに誘われその後薬を盛られてしまう。目が覚めると両手両足には手錠がはめられ、船に乗せられ白人たちが集う奴隷の売り買い場へと連れ去られる。数年間、雇い主を転々としながら奴隷として過酷な労働を強いられ、最終的には元の生活に戻ることができる。

彼は奴隷商人たちを告訴したが、被告が白人の裁判では黒人の証言が禁じられているため、首謀者への損害賠償は却下。ソロモンの死については日付・場所・状況すべてが謎である

というテロップで締めくくられる。少なくとも本作の展開が繰り広げられていたころ全然夜は明けていない。


奴隷制度廃止に反対、もしくは奴隷を使うことに賛成している白人たち、少なくとも本作で登場したそのような人たちは白人と言っても本当のお金持ちじゃなかった。彼ら彼女らは白人の中でも下層に位置するように見受けられる。もちろん、お金はある程度保有しているもののそのお金は奴隷を使うことでまかなえているものであり、彼ら自身の能力で稼いだとは言い難い。

弱者白人とここでは呼ぶとして、弱者白人たちは強者白人に怯えている姿と奴隷たちに高慢な態度を取る姿。その両方を兼ね備えている。奴隷たちがいなければ弱者白人たちは強者白人に虐げられるしかない。いや、強者白人は弱者白人を虐げているようには一見見えない。弱者白人が勝手に危機感を感じているように思える。その一種のトラウマを短期的に癒そうとする名目で奴隷という自らよりも明らかに地位が低く言いなりに出来る存在にすがり、アイデンティティをなんとか保とうとしている。

そんな彼ら彼女らも、ソロモンを取り返しに来る強者白人やより富を持った強者白人には全く手も足も出ない。まるで赤子のように怯えているのである。これは現在にも通ずるものであろう。アファーマティブアクションが採用されるようになり、社会的に下層にいる人たちが優遇されるようになった。一方で、中間層の人たちはその恩恵を受けること無く置いてけぼりの状態である。当然、下層の人たちに嫌悪感を抱くだろう。「どうして彼ら彼女らが優遇されるんだ!!」

人間が一定数集まるとそこには必ず階級が生まれる。持つ者と持たざる者。持つ者は持たざる者の気持ちがわからず、自分が存在していること自体が持たざる者を苦しめていることなど気にならない。持たざる者は持つ者を敵対視する者の、直接危害を加えるということはしない。これは昔からの掟なのか?では、誰に矛先を向けるのかというと自分より持たざる者である。最下層の人たちは持たざる者の反感をすべて請け負うことになる。本来、持つ者に与えられてどっこいどっこいになるエネルギーをすべて請け負うのである。そりゃぁ、本作の奴隷たちのように辛い状況に追い打ちをかけるように辛い仕打ちを与えてしまう。では、持つ者に対してはどのような行いをするのか?持たざる者は媚を売るのである。それが自らの生存確率を高め、必要以上の贅沢をできる可能性を高めることができるからだ。

とすると、心の面では持たざる者、中間層の人たちが最も追い詰められているのではないか?上と下、どちらも見ることができるポジションだからこそ、できるだけ上に行こうと・下には行かないように、と緊張感のある生活をしなければいけない。そうすると本作の農夫のように自分自身を見失って、朦朧とした状態に陥るのか。。


非常に考えさせられる考察抜粋↓

最初の女が言い寄ってくるところは暗闇で。構図的には上からカメラ撮ってるんだけど、構図的には女が上で、まるでノーサップが圧迫されるような構図になっているんだけど。それがパッと変わると、時制が戻ると、奥さんと完全にシンメトリーに。つまり対等な感じで明るいロウソクの光に包まれてっていう。これだけで、『あ、主人公が本来いるべきパートナーとかとも切り離されてるんだな』みたいなのが一切の言語的な説明ではなく、映像的に伝わってくるという作りになっている。

なるほど。。

フォードさんはいい人風かもしれない。善人風だけど、その善人っぷりの中の根底には、本質的にはやっぱり欺瞞があるんだと。その奴隷制度を容認して、利用している欺瞞があるんだっていうの、非常に映画的に暗示しているという。非常に見事な編集の流れじゃないかと思うんですけどね。で、こういう風にですね、フォードさん然りなんですけど、一瞬その人が救いの神に見えても、所詮はさっきから言っている時代環境にとらわれた視野しか持っていない当時の南部の白人なのだという。そういう要するに、一旦期待するんだけど、『うわっ、やっぱこいつ、似たようなもんだ』っていうこの失望の構図はこの後も何回も何回も繰り返される。
ブラピにね、バスに救いのあれを託して。あとは待つばかりなんですけど。そこの時間表現がまた独特で。まあ、できかけだったテラス。最初は木のむき出しだったテラスが、パッとカットが変わると、非常に素っ気ない省略表現で、白い塗装中で。要するに、時間がかなり経過している。これはまだ、らしいけどまだわかるあたりなんだけどね。

映像を用いた対比や、キャラクターをどのようにカメラに収めるか、細部にまでこだわられた映画であることを確認できた。1つのシーンにも監督の気持ちが込められ、観客はまんまとそれに誘導される。が、もう一歩踏み込んでみるとなぜそのような表現をしたのかを考察し始め、真の意味が理解できそうになる。



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以下、ここからゴリゴリに引用してます。気になった文章をピックアップ

アフリカ大陸から「人間」貨物を運び続けた奴隷売買人は、1808年、奴隷貿易が禁止されると新たな「商品」の供給先を国内に求めた。自由州からの自由黒人の誘拐である。
皮肉なことに、ノーサップは自由と平等を謳う国家の首都ワシントンで誘拐された。ノーサップが誘拐された1841年当時、首都ワシントンは奴隷制を採用し、奴隷売買も合法だった。 単に奴隷売買が合法だったというだけでなく、ワシントンは「国内奴隷貿易の中心地」(Child 32)でもあったのである。ノーサップがこの事実を知らなかったはずはないが、ワシントン行きを了承した彼には、知性も教養もある自分が奴隷にされるはずはないという思い込みがあったのだろう。ホテルで眠らされて気づいたときには、彼はジョージア州からの逃亡奴隷「プラット」(Platt)として鎖につながれていた。無防備に初対面の白人を信じて境界線を越えた彼にも責任はあるが、幼少時から日常的に白人と関わり、知的にも白人に劣らないと自負していたノーサップに、多くの黒人が当たり前に持っていた白人への警戒心がなかったのもやむを得ない。
チャイルドは前述のAn Appealの中で、自由黒人は法的には奴隷とほぼ同等の地位にあると指摘している。殺人等の重大な犯罪行為を目撃しても裁判で証言できないこと、南部では州内に入っただけで一定期間抑留されたり罰金を科されたりすること、自由人であると証明できなければ逃亡奴隷とみなされ、投獄・売買されること等がその理由である
自由黒人にどの程度の市民権を与えるかという議論には白人側の倫理的葛藤が透けて見える。特定の人種に対する人種差別的条項は正義に反するのではないかという倫理的葛藤である。州政府の役人の中には、黒人のみに対する人種差別的扱いは「万人は平等である」と謳う米国憲法や民主主義の理念に反する行為であると考える者もいた。その一方で、多くの白人は黒人に同等の市民権を与えることで彼らに権力を奪われるのではないかという恐れを抱いていた。このような倫理的葛藤の中で、北部諸州は黒人を二級市民として
扱うことで良心の呵責から逃れ、法律の恣意的な運用を正当化したのである

10年間、私は何の見返りもなくあの男のためにせっせと働いた。私の絶え間ない10年間の労働は彼の巨大な富を増やすことに貢献した。10年間、私は伏し目がちに帽子なしに、すなわち奴隷としての言葉と態度で彼に話しかけることを強制された。私への不当な悪口雑言やムチ打ちを除いて私は彼に何の借りもない。
ソロモン・ノーサップ
当時の政治・経済的思想において労働は「市民」としての自立、自治を可能にする手段であった。セルフメイドマンであるリンカーンの人生にも象徴されるように、賃金労働はやがて持てる階級(親方、資本家、富裕者)となり、市民として自治を担う自由労働者となるための経過的な労働形態だった。
15世紀のキューバやブラジルの黒人奴隷制においても解放された奴隷は市民として扱われ、以後、肌の色による差別を受けることはなかった。すなわち、これまでキリスト教国における奴隷制では、奴隷か自由人かという身
分に関わらず、黒人も市民であり、法の保護下にあったのである。しかし、アメリカでは奴隷は「人間」でさえなかった。奴隷制において彼らは「動産」として扱われ、市場価格によって売り買いされる「商品」であった。北
部でも南部でも肌の色による人種差別は存在し、自由人として生まれた黒人にも自由になった元奴隷にも人種差別は付きまとった。タネンバウムは「肌の黒さ」を「奴隷」の地位と関連付け、肌の色を理由に黒人を社会から排除するという思想はアメリカ特有の人種イデオロギーであると述べている
自由人として北部に生まれたノーサップは、突然自由を奪われた何百人もの北部人の一人として、冷静なヴォイスで誘拐犯罪と南部奴隷制の実態を明らかにしようとした。客観的かつ冷静なトーンで奴隷制を記録し、ナラティヴに書かれていることはすべて真実であると強調してナラティヴを終えている。

♦きっとうまくいく Aal Izz Wel

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新年一発目。記念すべき初映画。良い幕開けができたのではないでしょうか?コミカルでありながら裏側には教育に対する批判をはらむインドのミュージカル映画!!見終わった後に、なんか良かったぁ~というほんわか感に襲われると同時に、今何をすべきなのかを見直す契機をくれる。


舞台はインドにある理系の難関大学ICE。約4万人が受験をするものの合格できるのはわずか200名という熾烈な争いを勝ち抜いた人たちが集う。エンジニアを目指すという目標のもと、競争が繰り広げられる。そんな中、新入生として入学してきた3人の主人公、ランチョ―・ファルハーン・ラジュー。彼らはルームメイトであり、個性も全く異なる。

ランチョ―は完全な天才肌の持ち主。それでいてユーモア満載。常識に疑問を感じながら、反抗することをものともせず、自らの道をひた走る。非常に仲間思いであり、ファルハーンとラジューはベストトリオ。家庭がかなりの大金持ちという噂が流れていたが、実際はお金持ちの家の庭師の子供。お金持ちの実の子供が勉強できず、その変わり身として大学に入学。最終的にトップの成績を収め学位をもらえる。

ファルハーンは一番視聴者に近い存在かもしれない。エンジニアを目指すために大学に来たのではなく、親の期待から来ざるをえなかった。本当は動物を撮影するカメラマンになりたかった。それゆえ大学での学びも中途半端なところがあり、本心を隠したまま人生を歩んでいこうとする。

ラジューはエンジニアになりたい一心と共に、家族を養っていかなければいけないという大切な使命を持ちながら大学に通う。しかし、自分に自信が持てないため神様を過度に頼ったり、迷信に流され指輪をたくさんつけたりなど、臆病な一面がある。

3人(ほぼランチョ―)が競争に重きを置いた大学教育に対して、様々な形で異議を唱えていき、、自らの意志で生きるとはどういうことなのかを模索していく。

そして、チャトゥル。ランチョ―の対極をなす存在として登場。ユーモアなど微塵も無く、競争社会の化身と言っても良い。自らの頭で考えるのではなく、とにかく詰込み記憶に頼る。そして、社会的に良しとされるものを絶対視している。テストで1位を取るために、他の学生に罠を仕掛けるなどちょっと憎らしいやつ。


と、登場人物はざっとこんな感じ。作中ではファルハーンとラジューは落ちこぼれとして描かれているんだけど、インド有数の大学に入れてる時点で、めちゃめちゃ賢いはず。自分の純粋な好奇心では無くて、二次的な目標のために勉強を頑張って来たなんて凄いよ。しかし、本作では彼らは天才エリートとして描かれるのではなくて、僕たちに非常に近しい存在として描かれる。バカなことはするし、落ち込むし、テストは嫌だし、、。

例え、トップの大学に入れたとしても、その後は就職活動で競争。大学入学後の最初の会合的な所で、いきなり「人生は競争だ!!」なんて言い出す(包み隠していないだけましか?)。

入社後には会社内での競争。競争。競争。そして、その競争に素直に向き合おうとするのがチャトゥルなんだが、皮肉にも10年後一番不幸せな印象を受けてしまう。競争のレールから外れているのがランチョ―。それゆえ、競争を当たり前とする周囲との衝突は避けられない。が、その衝突を見事に跳ね返していくのである。これは痛快である。

しかし、ランチョ―が異質なのであって、普通の人間であれば競争の重圧に耐えきれずに自らの命を絶つ選択をしてしまうのだろう。人生に希望なんて感じることができないまま。大学という枠に収まらない人間は特に。そして、心優しい人ほど。ランチョ―は飛び降りて命を亡くしてしまった人は自殺ではなく、他殺であると頑なに主張する。自らの意志で命を絶ったのではなく、周りの環境に呑み込まれてしまいそのような結果になったと。

ランチョ―はチャトゥルを目の敵にする。チャトゥル側にラジューが行こうとしたときに、ある策略を実行。チャトゥルのスピーチ原稿をすり替え、大衆の前で恥をかかせようとする。詰込み記憶に頼るのみのチャトゥルは案の定、原稿の意味を汲み取ろうとせずにただ文章だけを覚えて本番に臨む。そして、大衆の前で大恥をかくのだが、本人は文の意味を理解していないため大成功だと思い込むのである。この素っ頓狂さは本映画の中でも一番と言ってよいほどの笑いどころであり、ブラックジョークが効いている。



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