見出し画像

偽物の自分なんていない。

「本当の自分って何だろう」
「まぁ、これは本当の自分じゃないから」

そんな風に思ったり、言い訳したりしたことはないだろうか。
ちなみに私はそんな時もあった。

今はそういう考えではなくなってきているが、決定的にその考え方を変えてくれる出会いがあった。


先日、多くのことを学ばせてもらっている、尊敬する大好きな先輩が1冊の本を貸してくれた。


その本とは、平野啓一郎さんの著書『私とは何か 「個人」から「分人」へ』

タイトルだけ見た感じ、惹かれるタイトルではあるが哲学チックで難しそうな感じがした。しかし読んでいくとそんな心配はいらなかった。

面白い、興味深い、考えさせられる。そして何らかの形でアウトプットしたい。

今回はこの本で得た学びを紹介したい。


・・・

平野さんは本の中で「分人主義」を展開している。

「分人」、そもそもそんな言葉は存在しない。造語である。

元々、「個人」(=individual)という単語は”分けられないもの”として定義されている。

そこをあえて「分人」という言葉を用いて”分けられる”という逆のことを述べているのだ。

実際の状況を考えてみたい。
私たちは、場の空気を読んで、表面的にいろいろな仮面を被り、キャラを演じ分けている。けれどもその核となるのは、「本当の自分」

裏表があることがあまり良しとされず、「ありのままの自分」でいることが理想とされている。

その一方で平野さんは言う。

「たった一つの「本当の自分」など存在しない。対人関係ごとに見せる複数の顔が、すべて「本当の自分」である。」

嘘の自分、偽物の自分などは存在しない。

そのキャラを演じることを決めたのは自分自身だし、その仮面を被ることを選んだのも自分自身。

そういった場面場面、相手によって変わるそれぞれの「分人」はどれも自分であり、分人の集合体が「本物の自分」だということだ。

自分の場合に当てはめて考える。

この記事のように、「自分の人生を生きていない」と思っていたときも、結局その選択をとっているのは、その時の私の分人であり、本物の自分の一つなのだ。


本を読んでいて、あるニュース記事を思い出した。

もしかしたら平野さんと言っていることは違うのかもしれない。

「本当の自分」はいらない、とだけ見るとむしろ逆を言っているようにも聞こえる。しかし、じっくりと読んでみると結構通ずる部分もある。

自分はいくつもの「役」を持っている。
手持ちの「役」が増えることで、一つ一つの役が抱える不安が軽減され、むしろそれぞれの役から新しい武器を与えられているような心持ちになる。

過去に学生さんから「本当の自分がわからない」と相談を受けたときにそのように感じたのだという。


つまりバービーさんのいう「本物の自分はいらない」という考えは、平野さんのいう「どの分人も本物の自分である」という考えと似ているのだろう。

むしろ自分自身が生き残っていくために、あえて「自分」というキャラを因数分解し、場面によって使い分けている戦略を感じた。


・・・


この本とニュース記事が何を教えてくれるのか。

私が思うに、「自分という人間の選択肢を無理に1つに絞る必要はない」ということかな、と。

そのどれもを否定せずに、受け止めてあげることが大事なのかな、と。

中には自分の中でも嫌いな「分人」、嫌いな「役」がいるかもしれない。
その時は、その分人の割合を減らしていけばいいし、その役を使う機会を減らしていけばいい。

自分自身を否定する必要はない


平野さんも著書内で、

「自分を愛するためには、他者の存在が不可欠だという、その逆説こそが分人主義の、自己肯定の最も重要な点」

だと述べる。

好きな分人が一人ずつ増えていくなら、私たちはその分、自分に肯定的になれる。否定したい自己があったとしても、自分の全体を自殺というかたちで消滅させずに済む。




偽物の自分なんてものはいない。

それはもしかしたら自分の弱さから目を背けるための「言い訳」、という逃げ道を一つ減らしてしまう言葉なのかもしれない。


だけどそれ以上に、自分を守ってくれる、救ってくれる大事な言葉であるということを学んだ。

そしてもっと自分の人生に自信と責任と覚悟を持つことが大事だということを教えてくれた。


この記事が参加している募集

推薦図書

今後の記事の質向上のための資金として使わせていただきます!