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頭脳が語ることを私たちは理解できない

頭脳は、visionが見ているものを解釈することはできない。 頭脳が語ることを私たちは理解できない。それでも私たちはその語ることに耳を傾けてきたし、長い間そのメッセージを懸命に理解しようとしてきた。 だが、私たちのもとに「達することのできない」ものを理解することは不可能である。コミュニケーションができなきものに耳を傾けてきたからだ。

    • 聖なる関係は、「神と神の子の真の関係」を反映している

      神の子の意味は、「創造主との関係の中」にのみ存在している。 逆に自我の特別な関係は「部分的で、自己中心的で、恐れに満ちている」。そして自己を破壊し、自己を限定させるもの。 聖なる関係は、完全に愛に満ちた永遠なる関係、完全な融合による途絶えることのない継続する関係である 聖なる関係は、「神と神の子の真の関係」を反映している。聖霊はこの関係が永遠に続く確信をもって、聖なる関係の中で安らいでいる。

      • 肉体と自己概念と偶像崇拝が入り込んだ特別な関係は、「力」を求めるために使用される。しかしその力は永遠の祝福と比較すれば無意味なものだ

        肉体が入り込むすべての関係は「偶像崇拝」に基づいている。偶像は共有することはなく、何かを受け入れるこたはあるが、返すことはしない。偶像は愛されることはあるが、愛することはできない。 偶像が入り込んだ関係はどれみな、その意味が失われている。そこでは本人以外の誰も歓迎されないので、彼らには関わる相手がいない。 肉体は関わり合いを「通して」、権力を求める。そのために選ばれたのが肉体。 自分の偶像を富ませる捧げ物のためだけに、特別な関係を望んでいる。それ以外のものは投げ捨ててしまうの

        • 肉体が「自らや他者を責める」メッセージを発信しているならば、そのメッセージを与えたのは私たちの心なのである。

          肉体は感情を持たない。私たちが「望む感情」を肉体は伝えるのみである。 他の中立な構築物と同じように、心が与えたメッセージを受け取るのだ。送り手と受け手は同一である。自我か聖霊かである。 メッセージは自分自身に送れられることにならなら、だれが攻撃のメッセージを送りたいと思うのだろうか。誰かを責め、罪ありとするメッセージを送るならばそれを私たち自身にも受け取ることになる。 肉体が「自らや他者を責める」メッセージを発信しているならば、そのメッセージを与えたのは私たちの心なのである。

        頭脳が語ることを私たちは理解できない

        • 聖なる関係は、「神と神の子の真の関係」を反映している

        • 肉体と自己概念と偶像崇拝が入り込んだ特別な関係は、「力」を求めるために使用される。しかしその力は永遠の祝福と比較すれば無意味なものだ

        • 肉体が「自らや他者を責める」メッセージを発信しているならば、そのメッセージを与えたのは私たちの心なのである。

          自己概念とは、神の子に「何かが起こり得る」という考えである

          自己概念とは、神の子に「何かが起こり得る」という考えである。神の子の意志をなきものにし、その代わりとして「自己概念」を意志とした。 これによって「神が私たちに意志したものを持たずにいるだけの力」が、自分にはあるという声明である。神を無力にし、その無力な力を自分のものとしたのである。この自らの無力性を脅かすものはすべて、自分の信仰を攻撃しているかのように見えるので大変苛立たしい。 「何が起こるべきか」を自らに告げる自己概念(=意志)が、私たちの祭壇に置かれている。これによって

          自己概念とは、神の子に「何かが起こり得る」という考えである

          他者を評価することはできない。なぜならその価値は計り知れないものだからである。

          他者の価値を、過大評価することは「その者を自分のために望んでいる」ことを意味しているので、結果過小評価していることになる。自我だけが他者を評価する。 神の子という、計り知れないものを評価することはできない。 自分にとって超えているものを判断してはならない。判断すれば決してそれを見ることはできない。 なので、それが「訪れる」のを辛抱強く待ちなさい。他者のために平安のみを望むとき、他者の真価を見る機会が与えられる。 だれかをただ愛してさ、嬉しく思うとき、判断や評価をしようと

          他者を評価することはできない。なぜならその価値は計り知れないものだからである。

          見える世界は、「自分は正しかった」と証言する証人である。

          私たちが見ている世界は、「自分が正しかった」と証言する証人である。 それは根拠がないものである。 私たちがこの「証言」を訓練したのであり、訓練したその通りの証言が持ち帰られると、私たちはそれに耳を傾け、それが見てきたことは真実だと自分自身に納得させた。これを私たちは自分自身に行なっている。 「見る」とは、その論拠がいかに堂々巡りするだけのものかがわかる。これは神から与えられたものではない。だがこれを私たちは自らと他者に与えている。

          見える世界は、「自分は正しかった」と証言する証人である。

          プレゼントとは、他者と自分自身の評価であり価値である。

          真に与えられるものは、「肉体を通して作り出されるもの」ではない。 心のみが価値を評価することができる。そして心のみがどんなものを受け取り、何を与えるかを決めている。 そして心が差し出す贈り物はすべて、その心が「何を望んでいるか」で決まる 心が自らの選んだ家(肉体)を飾りつけるのは、そこに引き寄せられたい者へ、心自身が「望んでいる贈り物」を与えることで、その肉体が贈り物を受け取れるよう準備を整える。そして心が引き寄せられた者にふさわしいと判断するものを差し出して、受け取り、

          プレゼントとは、他者と自分自身の評価であり価値である。

          他者を魅了するために、自らの肉体を美しくし着飾るならば、それは「茨の冠」を差し出していることになる。

          肉体の眼で見るために作り出された様々な装身具を見なさい。肉体に引っ掛け、飾り、覆うための装身具や、肉体を楽しませるために作り出された数多くの捧げ物。 これらは「私たちが憎んでいるもの」を美しく見せるために作られたことを思い出しなさい。 私たちはこのような茨を用いて、他者を引き寄せ、他者の肉体の眼を魅了したいのだろうか。それは他者に茨の冠を差し出していることに気づきなさい。 私たちは自身では肉体の正体を認識しないまま、他者がそれを受け入れることによってその肉体の価値についての

          他者を魅了するために、自らの肉体を美しくし着飾るならば、それは「茨の冠」を差し出していることになる。

          この幻想世界は、私たちが「自分」だと思っているものを、「どのように自分を見ているか」を、描いた絵である。

          自我は世界を作り出して、そのあと世界に合わせて自分を調整し、自分に合わせて世界を調整しようとする。 私たち自身と世界の間にはなんの異なりもないのは、二つとも私たちの知覚が作り出したものだからである。 「私たちは自分の作り出したものに満足しているか?」というひとつの問い この幻想世界は、私たちが「自分」だと思っているものを、「どのように自分を見ているか」を、描いた絵である。 自分が行った「調整」によって恐ろしいものとなった世界、そんな世界に合わせて自分を調整しようとする

          この幻想世界は、私たちが「自分」だと思っているものを、「どのように自分を見ているか」を、描いた絵である。

          調整とは、罪への信念である。「以前の状態とは異なるものに変えられた」という考え

          罪への信念とは、ひとつの調整である。調整とは、手を加えて整えることであり、変更である。つまりそれは「知覚の変化」をもたらすことであり、「以前の状態とは異なるものに変えられた」という信念である。どの調整も歪曲である。それを現実に対抗して、支えるには、防衛に頼ることになる。 智識はどんな調整も必要としない。もし少しでも変更が行われるならば、智識は失われてしまう。それは智識をただの知覚へと、確かさが失われ、疑いが入り込んだ一つの見方へと格下げされてしまう。 このように損なわれた状

          調整とは、罪への信念である。「以前の状態とは異なるものに変えられた」という考え

          真理の中でのみ心はつながり、自我の中では繋がれない(お互いに同一の意図を共有できない)

          「一つの意図」をもった二つの心は非常に強力であり、彼らの意志は神の意志と一つになる。 真理の中でのみ、心は心とつながることができる。 逆に自我の中では、二人の者が同じ一つの意図を共有することはできない。なぜなら、それぞれの望む結果は異なっていて、お互いにとって同じものではないからだ。夢の主人公は違っているものとみなされる。損失に対する利益の比率、利益に対する損失の比率が、別の形に現れ、勝者と敗者が色々なパターンで入れ替わっていく。だから自我の中では「妥協」しかもたらされない。

          真理の中でのみ心はつながり、自我の中では繋がれない(お互いに同一の意図を共有できない)

          「神の平安」を真に望むことで、すべての夢を放棄する

          「私は神の平安を望む」、これをただ口にするのではなく“本気”で言うことはすべてに値する。本気で言うことができれば、どんな時でもあなたに悲しみはない。癒されないものはいない。 神の平安を望む、と本気で言うことは 一切の夢を放棄することである。そうなれば幻想を望むことはなく、幻想を手に入れるための手段を追求することもなくなる。 神の平安を望むものは、幻想を眺め、様々な幻想の本質はひとつであり、どんな幻想も「絶望と悲惨」を手に入れるだけで、その違いは形だけだと理解している。 この言

          「神の平安」を真に望むことで、すべての夢を放棄する

          恩寵とは、神の愛の一つの側面である。

          恩寵とは、「神の愛」の一つの側面であり、真理の単一性の中に満ち溢れている状態とよく似ている。 恩寵はこの世界を超えたところまで完全に導くので、これを目標にすることは最も崇高な志となる。 心が恩寵を真に受け入れる準備ができるまではそれは訪れない。

          恩寵とは、神の愛の一つの側面である。

          死とは、「神からの分離が実際に起こりうる」という信念

          死は、「神からの分離が実際に起こりうる」という信念である。 死と病気は同じ信念の異なる名前であり、この世界はこの信念(=神から分離しうる)を守り、維持するために作られている。 ・死の魅力は、作られた自己概念と、その一部である気晴らしと防衛への魅力です。心が死の魅力に力を与えると、固有の人生を持つリアルな実体を偽装して投影します。 ・死が魅力的に見えるのは、怒りや罰を与える「恐ろしい神の代わり」を死が担っているから、死は魅力的に見える。神はそんな存在ではないが、眠ってる心に

          死とは、「神からの分離が実際に起こりうる」という信念

          一体性とは、「神、在り」という概念

          一体性とは、「神、在り」という概念である。神の実存のうちに、神はあらゆるものを包含する。 私たちは「神、在り」とだけ言って、口をつぐむ。その智識の中では言葉は無意味だからである。心の中には、今自分が「自分以外の何か」を自覚していると感じる他の部分から区別された心の一部分というのはない。 心はその“源”とひとつに結ばれており、その“源”自体と同じようにただ在るのみである。

          一体性とは、「神、在り」という概念