肉体と自己概念と偶像崇拝が入り込んだ特別な関係は、「力」を求めるために使用される。しかしその力は永遠の祝福と比較すれば無意味なものだ

肉体が入り込むすべての関係は「偶像崇拝」に基づいている。偶像は共有することはなく、何かを受け入れるこたはあるが、返すことはしない。偶像は愛されることはあるが、愛することはできない。
偶像が入り込んだ関係はどれみな、その意味が失われている。そこでは本人以外の誰も歓迎されないので、彼らには関わる相手がいない。
肉体は関わり合いを「通して」、権力を求める。そのために選ばれたのが肉体。
自分の偶像を富ませる捧げ物のためだけに、特別な関係を望んでいる。それ以外のものは投げ捨ててしまうのは、それが差し出すものは「無価値」なものと見なすからである。
自我はできる限り多くの肉体を集めて、その中に自分の偶像を置こうとする。そうすることで、多くの肉体を自分の神殿にしようとする。
(神殿=おそらく、神とのコミニュケーションの場所で使われている)
ここでは現実を免れて、自己概念を生かし続けるためにパン屑を探し求めている。
特別な関係は、他者を偶像に繋ぎ止めようとする。

肉体と自己概念は愛の器となることはできず、愛が咎められる場所である。
そして肉体は、偶像崇拝者たちの家でもある。

特別な関係は、最初から「関係」などでなく、「孤立の状態」である。だがそうとは見えない。「私たちと神との関係」を聖なるものにしない(特別にする)といった狂った考え(が可能と思えた瞬間に)により、すべての関係は無意味となった。肉体はその象徴である。

偶像は消えてなくならざるを得ないものである。消え去った後には何も残らない。そこに有された「強力」のごとく見えるものがもたらす、特別な瞬間(非神聖な瞬間)は儚いものだが、美しいわけではない。それはとてつもなく誤解され、偽りの魅力に限りない思い入れを投じているものだ。

私たちはこの特別な瞬間を、聖なる瞬間の永遠の祝福の代わりとして、平安と理解の代わりとして、好んでいる。

肉体とは自我の偶像である。罪が実在すると信念が外に投影されたものだ。これが心の周りを取り囲む壁のように見えるものを生み出し、時空間に心を閉じ込めたのであった。

聖霊の神殿は、「関わり合い」である。(もちろん肉体ではない)
そして関係に序列はない。それは関係であるか、ないか。そのどちらかでしかない。

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