私たちとは何か?(acimによせて)
・私たちとは、「二つの思考のうち一つを決断する心」である
・「聖霊」と「自我」という二つの思考体系が心の中にはあり、そのうちのどちらかを選択するのが《決断する主体》である。これが我々である。
・「二つの見方」が心の中にある。そのどちらかを選択することで、選んだ見方が外側に反映され、その証人を見ることになる。聖霊か自我か、自分が ”探し求めているもの” を世界で見つけるのである。まず自分が望んだ見方を選び(けれど私たちはその選んだことを忘れている)、その後その望んだ見方によって世界を知覚する。自らが望んだ見方を知覚すれば、当然それを本当のものとして受け入れることになる。これは自分がどう“知覚”するかで、聖霊か自我、どちらの見方を選択したかが分かるということでもある。
・「真理だと受け入れた見方」によって、私たちは世界を眺め、知覚し、その知覚を支持することになる。まずはじめに受け入れる!と決めたもののみを、受け入れているのである。まず最初に二つの考えのうちどちらかを真理だと受け入れることを選択しているため、目に映る世界は「それは正しい」と証言するもので溢れるようになる。そしてそれから矛盾しないように慎重に、情報を選び出して、それは“真実”だと自らに納得させているのが私たちである。けれどこのことを意識できないのはなぜか? 私たちは忘れているのだ。まずはじめに「聖霊と自我、二つの見方のうちどちらを選択したのか」を忘れた上で、選択した通りの証言が手元に持ち帰られれば、もちろんそれが正しいと考える。人はそこにあって欲しいと思うものを、そこにあると信じるのである。
・見ている世界は、自分の「内なる判断基準」を映し出している。心にある支配的な考え、感情、信念が反映されている。私たちはまず最初に自分の内を見て、どんな世界を見たいかを決めて、それからその決めた世界を外側に投影する。そして目に映るもの、肌で感じるもの、耳で知覚するものを真実だと思い込む。五感が示すものはその実在性を証言しているように思えるかもしれない。怒り、不満、動揺……を知覚するならば、世界はとても酷い場所のように見ることになる。だが怒り動揺することを選んだのは“自分自身”なのだ。(こうして、すべての知覚を訂正することを私たち学ばなけれならない)
・もし動揺しているなら、それは「自らが動揺することを選んだ」からである。例外はない。誰かが悪口を言ってきてたとしても、それは動揺の原因にはならないのだ。平安の喪失の原因にはなりえない。どんな人も、どんな現象も、自分の平安を奪うことはできないし、すべてのものには自分の幸不幸への責任はないのである。自分に影響を与えたのは ”世界ではない” ───そう認めたならば、自分の「心の中の考え」を変えて、知覚の間違いを元に戻すことができる道が開かれる。
・多くの場合、私たちは自我の考えを意識せず選択しているので、選んでいるという感覚はない。肉体や恋愛(=構築物)はそれ自体では良くも悪くもないが、そこに自我の考えを与えるならば、自我のゴールを追求していることになる。構築物が自我の目的に使われるのか、それとも聖霊の目的のために使われるかは、心が何を望むかにかかっている。
・誰もが自分の宝(=個人的な真実)を守るために防衛してしまうもの。自動的に守ってしまうがために、それは本当に宝なのか?と問いただす機会が失われており、それは一体何のためのものなのか?と尋ねることもしない。しかし一度この問いを発するならば、その“宝”(=個人的な真実)は、それからイメージされる「経験」を──その経験こそ──を求めていることが分かるようになる。その宝それ自体ではなく、それからイメージされる心の経験を本当は望んでいるのである。
ではその望む経験とはいかなるものなのか?
それは「永遠の自由、永遠の平和、永遠の幸福、永遠の喜び、永遠の愛、永遠の親密さ」である。なぜ私はここにいるのか?なぜ◯◯を手に入れようとするのか?何が私を駆り立てているのか?……それらは最終的にこの経験をしたいと望んでいるのだ。永遠の幸福が欲しいと。自我は形あるいつか消失する“宝”を追求させるが、聖霊の思考は永遠の幸福をもたらすよう導く。
・もし聖霊と自我、二つのゴールを同時に追求するなら、そのどちらも望むがために、どちらも見つけはするが、その二つを「同じもの」だと考えるようになる。二つのゴールを「一つ」のように見なすことで、その一つのゴールのみを持っていると信じることになる。それは、「時間の中に永遠を、限界の中に完全を、形の中に神を見出そうとすること」であり、不可能なことを可能にしようとする試みである。変わりゆくものを永遠にすることはできないし、不完全と完全を同時に信じることもできない。それらを「共存する可能性」として考えることは、「心の中の分離を保っていたい」という欲望を示している。聖霊か自我、どちらか一方に、一つだけに確実な献身を誓うまでは、私たちの思考は不可能を可能にしようとするため不安定となる。そこから何も得ることはない。
・一方の思考体系を選んでいるとき、他方は忘れ去られている。
・心の中には、「神対自我」の存在論的な葛藤があり、この分裂を保とうとするその緊張はとてつもないものとなっている。本来この二つは決して接触することのない、共存不可能であるものの解離することで維持されている。ゆえに心の中の戦闘状態は隠されたままとなる。
・この心の中にある尋常じゃないほどの緊張をなくすため、葛藤を「外界」へと投影した。神対自我の分裂を内部ではなく外部で見ようと試みた結果、二元性と対立の世界が生じ、「主体客体、上下、善悪、正誤、相反する意見、変化する欲望」は常に目撃され、「痛み、恐れ、疑念、悲しみ、健康と病気、戦争と平和、生と死、程度、極端さ」は、この世界の共通の経験となり誰も疑うことはない。
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