調整とは、罪への信念である。「以前の状態とは異なるものに変えられた」という考え
罪への信念とは、ひとつの調整である。調整とは、手を加えて整えることであり、変更である。つまりそれは「知覚の変化」をもたらすことであり、「以前の状態とは異なるものに変えられた」という信念である。どの調整も歪曲である。それを現実に対抗して、支えるには、防衛に頼ることになる。
智識はどんな調整も必要としない。もし少しでも変更が行われるならば、智識は失われてしまう。それは智識をただの知覚へと、確かさが失われ、疑いが入り込んだ一つの見方へと格下げされてしまう。
このように損なわれた状態では、それが真実ではないこそ、調整が必要になる。真理に対しては調整/変更は必要とされない。
真理は神の子の本性のみを引き合いにし、理解されるものだからだ。
「調整」は、自我に属するもの。
自分が関わる関係を「望み通り」のものにしようとするので、「すべての関係は調整の上に成り立つ」と自我は信じている。
なので、調停者として自らがふさわしく、必要と見なすあらゆる調整を実行する。出会う者すべてに調整をなし、彼らを分離したままに保ち、融合をふせぐ。
何の妨げのない直接の関係は、危険と知覚される。
聖なる者は、真理を妨げない。真理を恐れない。真理の中で自らの聖性をみて、喜ぶからである。真理をじかに眺め、自らを真理に合わせたり、真理を自分に合わせたりすることはない。そのために調整しようとはしない。だからこそ聖なる者は、真理を「どこに置きたいか」を自分で決めることはせず、自分自身の中に真理がらあったことを理解するのだ。
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