プレゼントとは、他者と自分自身の評価であり価値である。

真に与えられるものは、「肉体を通して作り出されるもの」ではない。

心のみが価値を評価することができる。そして心のみがどんなものを受け取り、何を与えるかを決めている。
そして心が差し出す贈り物はすべて、その心が「何を望んでいるか」で決まる

心が自らの選んだ家(肉体)を飾りつけるのは、そこに引き寄せられたい者へ、心自身が「望んでいる贈り物」を与えることで、その肉体が贈り物を受け取れるよう準備を整える。そして心が引き寄せられた者にふさわしいと判断するものを差し出して、受け取り、贈り物を交換する。


それぞれの贈り物が、受け取る者と、与える者についての評価である。
(贈り物とは、受け取るものと与えるものへの評価を表す)

自ら選んだ家(肉体か天国か)を、私たちは祭壇とみなす。その祭壇に置いたものを、信じ崇める者たちを引き寄せる。そしてその祭壇を崇めるものたちの献身(尽くす)に相応しいものにしようとする。

祭壇に「置かれたもの」を、崇める者が見て、その置かれたものを崇める者たち自身のものと考えるようにさせたいので、祭壇には明かりが灯される。
この「置かれたもの」が、他者と自分自身の価値である。それは「神の子をどのように見なすか」の判断でもある。

贈り物を捧げる相手は私たちの救済者であることを忘れてはいけない。他者に茨を差し出すなら、私たち自身が十字架に掛けられる。逆に百合の花を差し出すなら、私たちは自由になる。

イシュアは百合の花を必要としている。神の子はまだイシュアを赦していないからである。
私たちが他者に茨を捧げるならば、今もイシュアに敵対しているのだ。そしてその茨を捧げた他者を除いたままでは、全一にはなれない。他者を神の子として見れるように、神の子を全一なものとして見れるように、百合の花を捧げなさい。私たちはイシュアのために、その者の友になりなさい。

祭壇に置かれたものが「赤い茨」であれば、私たちが選んだ家は肉体であり、差し出したのは分離となる。(だが赤い茨はもう無いのだ。もっと近寄ってよく見るならば、私たちの祭壇は勝手の祭壇ではないことがわかるに違いない)

肉体の眼は赤い茨だけを見る。それ以外は見ることができない。しかし私たちには別の視覚がある。聖霊のビジョンはいかなる異邦人も見ることはない。見知った者として、深く愛された親しい友としてのみみる。聖霊のビジョンでは赤い茨見えず、ただ白い百合の花だけが見える。

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