「期待しない」それだけで心は楽になる
「執着を断つ」ことは、仏教においてとても重要視されています。
苦しみが生まれる元のひとつが「執着」にあると説かれているためです。
色々と経験してきた中でも、僕は「期待される」ことが苦手でした。
生きていく中では学校や会社に家庭と、様々なシーンがありますが、その中では部活でも勉強でも仕事でも「期待」を向けられます。
両親から「期待しているよ」と言われます。
親戚から「期待しているよ」と言われます。
友達から「期待しているよ」と言われます。
先輩から「期待しているよ」と言われます。
後輩から「期待しているよ」と言われます。
上司から「期待しているよ」と言われます。
顧客から「期待しているよ」と言われます。
社会から「期待しているよ」と言われます。
伴侶から「期待しているよ」と言われます。
子供から「期待しているよ」と言われます。
様々な所で様々な人から、人は期待されるものです。
多くの人は「期待しているよ」と言われますと「自分に期待してくれたんだ! 頑張るぞ!!」とやる気になったりすることでしょう。
それはすごくいいことだと思います。誰かから期待されて、それに応えることができたときの喜びと自信は、他では味わえない醍醐味です。
しかし、僕は「自分に期待しているなんて…荷が重いなぁ…」と逃げ出したくなることがほとんどでした。
勉強もできず、スポーツもできず。仕事だって要領が良くなかった。何のとりえもない僕にとって、周囲から向けられる期待は「重荷」以外の何物でもありませんでした。
自分が期待に応えられないと、怒られたり失望されたりしまして、そんな自分に自己嫌悪したものです。
「頼むから僕に期待しないでくれ!! ほっといてくれ!!!」
声には出しませんでしたが、常にそう思って生きてきました。
そう思って生きてきたためか、僕は他人に対して「期待しない」ように心掛けてきました。
もちろん、最初は友達や後輩に「期待しているよ」という気持ちを抱いたりしました。
しかし、何か問題が起きたり、自分が思ったように物事が進まないことが多いものでした。自分の期待通りにはならないことがほとんどでした。
そうなると、自分も自然と怒りを覚えてしまい、時には心無い言葉を吐き出してしまうこともありました。
そのときに、自分の過去を思い出しました。
自分が同じ気持ちで苦しんできたというのに、相手に同じ苦しみを与えていたのです。
僕はその時に「期待しない」ことの大切さを知りました。
相手に対して「期待する」ということは、一種の『執着』であり「こうなってほしい」という『欲望』を向ける行為だと、ここ最近になって気がつきました。
僕はそれを知ってから、相手に「期待しない」ように心がけてきました。
冷酷で冷たい人間のやることのようですが、こうすることで「イライラする」「怒る」「心無い言葉を吐く」ことは無くなりました。
「ああ、しょうがないね」
何か起きても、そう思って対処するようになりました。
おかげでずいぶんと、心は楽になったような気がします。
「期待しない」だけで、楽に生きて行くことができるのです。
社会で生きて行ったり、パートナーを見つけることには、とことん向いていないだろうと思います。
しかし、それでいいと思うのです。
僕の大好きな言葉を、紹介します。
「強くなければ、生きていけない。優しくなければ、生きている意味が無い」byフィリップ・マーロウ(レイモンド・チャンドラー著『ロング・グッドバイ』より)
人に優しくできるのなら、それでいい。
それでこそ、自分が生きている意味になりますから。
それではっ!
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