20世紀の歴史と文学(1910年)

今日は、文学メインの解説にしよう。

1910年は、白樺派の武者小路実篤や志賀直哉、有島武郎らが、雑誌『白樺』の創刊とともに、文学界に名を連ねるようになった年である。

白樺派というのは、1900年代に一時的な隆盛を見せた自然主義に代わって、新たな思潮を生み出し、自由や理想の追求、個人主義的な考え方が色濃く出たジャンルといえるだろう。

文学界にそうした考え方が出てくるのは、やはり当時の世相を映しているからであり、日露戦争に勝ったのにさらに生活は苦しくなるし、恐慌が起きて日本経済に閉塞感が生じれば、国民がそうした窮状からの解放を望むのは自然なことである。

志賀直哉の『網走まで』、谷崎潤一郎の『刺青』、石川啄木の『一握の砂』は、1910年に発表された作品である。

谷崎潤一郎は、耽美派のジャンルになるのだが、耽美派は、雑誌『白樺』と同じ年に創刊された『三田(みた)文学』の関係者が多かった。

『三田文学』を創刊したのは永井荷風であり、1908年に『あめりか物語』、1909年に『ふらんす物語』を発表して注目された作家である。永井荷風は、当時の政治家であった西園寺公望にも可愛がられていて、親交があった。

1900年に『高野聖』を発表した泉鏡花も耽美派である。

一方で、石川啄木は、生活派といわれており、『一握の砂』がそうであるように、数多くの短歌を詠んで当時の生活状況や自身の思いを表現し、注目された。

さて、前年にハルビンで銃撃された伊藤博文が亡くなり、その後、大韓帝国はどうなったかというと、この年の8月に、日本政府は韓国との条約締結により、韓国併合を行なった。

伊藤博文を銃撃した安重根は、すでに2月に日本で死刑判決を受け、3月26日に刑死した。

韓国併合によって、韓国は日本の植民地となり、1897年に日本の働きかけで独立国家となったはずの大韓帝国は、わずか13年で滅亡したのである。

それ以来、1945年に日本が第二次世界大戦で連合国軍に敗れるまで、今の韓国は日本の領土だった。

こんなことをした明治の日本人は、いったい何を考えていたのかと思う人もいるだろう。だが、当時、「日本人とは何か」を問い続けていた一人の民俗学者がいた。

そう、柳田國男(やなぎた・くにお)である。

1910年に、柳田は『遠野物語』という説話集を発表したのだが、遠野という地名からも分かるように、東北地方(岩手県)の山村で生活する人々に取材した作品である。

この作品の序文で、柳田は「願はくは之を語りて平地人を戦慄せしめよ。」と言っている。

平地人とは、西洋文明に影響された都会人のことを言っている。

この年19才だった芥川龍之介は「おもしろい」と評したが、島崎藤村や田山花袋からは不評を買った。

柳田の作品をおもしろいと感じるかどうかは人それぞれだと思うが、同じ国内でも奇妙な慣習が残っているという事実に目を向ける良い機会であることは間違いないだろう。







この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?