【続編】歴史をたどるー小国の宿命(32)
本能寺の変から丸1年が経ったとき、織田信長も、その妹のお市の方も柴田勝家も、この世にはいなかった。
柴田勝家と手を組んで戦った織田信孝も、勝家の自害から1週間後に、自害に追い込まれた。
滝川一益は、そこからまだ3年生き延びるのだが、伊勢の所領は、信長の次男だった信雄に取られてしまった。
だが、今度は、信雄が秀吉に対して挙兵することになる。
それを見た秀吉は、一度は自分に刃向かった滝川一益を、呼び寄せる。滝川一益は、秀吉側につき、敵となった信雄と戦うことになった。
さて、秀吉や滝川一益に対抗して、この信雄と一緒に戦ったのが、誰あろう家康である。
1584年3月から半年にわたって、小牧・長久手の戦いが繰り広げられたのである。小牧・長久手は、今の愛知県にある。
秀吉も家康も頭が良かったので、全面衝突はお互いに回避し、9月に両者は和睦する。ただし、和睦条件は、秀吉が有利だった。
家康の味方だった越中国(今の富山県)の佐々成政(さっさ・なりまさ)は、戦いを継続するように進言するのだが、家康はこれを拒んだ。
このときの家康の性格をよく表している有名な句がある。
鳴かぬなら 鳴くまで待てよ ほととぎす
である。
ちなみに、知っている人もいると思うが、
織田信長は、
鳴かぬなら 殺してしまへ ほととぎす
である。
秀吉は、
鳴かずとも 鳴かしてみせふ ほととぎす
である。
これらの句は、江戸時代後期に、第9代平戸(=今の長崎県)藩主だった松浦静山(まつうら・せいざん)が書いた随筆『甲子夜話』(こうしやわ)に載っているものである。
1586年、滝川一益も、柴田勝家と同じ62才でこの世を去った。戦死や自害ではない。
家康は、この時点ではまだ、秀吉の臣下ではなかった。秀吉の家来になることは、やんわりと断っていたのである。
しかし、秀吉が目論む天下取りのためには、家康を自分側に引き込まなければ、関東で勢力を維持している後北条氏には勝てない。
さて、家康の心を動かすために、秀吉はどんな策を講じたのだろうか。(ほととぎすを鳴かせてみせたのだろうか)
続きは、明日である。