〈最終回〉現代版・徒然草【100】(第187段・プロフェッショナル)

NHKの『プロフェッショナル  仕事の流儀』という番組を観たことがある人はご存じだと思うが、番組の最後に、インタビュアーがお決まりの「あなたにとってプロフェッショナルとは?」という質問をゲストに投げかける。

プロ意識を持っている人は、昔もそれなりに自己研鑽を積んでいたと思うが、やはり同じ道のプロに認められてこそのプロであり、ちょっと成り上がっただけの勘違い人間は、素人にウケただけで調子に乗って失敗する。

では、原文を読んでみよう。

①万(よろづ)の道の人、たとひ不堪(ふかん)なりといへども、堪能(かんのう)の非家(ひか)の人に並ぶ時、必ず勝る事は、弛(たゆ)みなく慎みて軽々しくせぬと、偏(ひと)へに自由なるとの等しからぬなり。 
②芸能・所作のみにあらず、大方(おおかた)の振舞・心遣ひも、愚かにして慎めるは、得の本(もと)なり。
③巧みにして欲しきまゝなるは、失の本(もと)なり。

以上である。

①の文では、あらゆる分野の専門家(=プロ)の人は、たとえ未熟であっても、プロ並みの才能のある非家(=アマチュアのような人)と並んだときに、必ず勝っているのは「たゆみなく慎重に臨んでいて、物事を軽々しく考えていない」点と「ただ好き放題にやっているわけではない」点だという。

②の文では、芸能や所作に限らず、日頃の振る舞いや心遣いを見ても、へりくだって慎むような感じで行動している人は成功しているという。

逆に、③の文のとおり、自分がうまくできるからといって好き放題にやっていると失敗すると言っている。

おごらず、ぶれず、まっすぐな気持ちで人生を歩んでいる人は、それだけ着実に経験を積んでいる証であり、毎日それを繰り返してこそ、自然と「型」として定着し、プロの器になりうるのである。

ピアノの先生が、ピアノを弾ける才能があっても、毎日ピアノを弾いていなければ、いつしか腕は落ちていく。そういった意味では、本当のプロではない。

プロ野球選手が、基本的な素振りや投げ込み、走り込みを毎日の練習メニューとして続けるように、ハイレベルなテクニックというのは、基本の土台が崩れていない前提で身につけるものである。

「好きこそものの上手なれ」ということわざと混同して、好きだから上達するんだという思い込みはよろしくない。

走ることが好きなマラソンランナーだって、キツい練習を毎日続けることは根気がいる。

現代版・徒然草シリーズを、昨年12月から丸1年連載してきた。

最終回にふさわしい段で締めくくれたと思うが、あとは皆さんのほうでいろいろと考えていただければ幸いである。

全100回、ご愛読いただき、ありがとうございました。

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