【続編】歴史をたどるー小国の宿命(95)

明治時代の庶民にとって、1872年に発布された学制は、あまり歓迎できるものではなかった。

だが、新政府にとっては、列強諸国の脅威を開国以来、身近に感じるようになった今、富国強兵政策を推し進める必要があった。

当時の日本人の義務教育段階の就学率は、30%にも満たなかった。庶民のほとんどは貧しい農家出身であり、子どもを学校に行かせると、農作業の担い手が不足するので、行かせられるような状態ではなかった。

それでも、外国と対等にわたりあうには国民教育は不可欠であったので、学制において、小学校の就学は義務づけられた。

学制の条文は、「大中小学区ノ事」「学校ノ事」「教員ノ事」「生徒及試業ノ事」「海外留学生規則ノ事」「学費ノ事」の六篇109章から成り立ち、翌1873年には、さらに条文が追加され、全213章に及ぶ膨大な分量となった。

このうち、最後の「学費」とは授業料のことであるが、当時は学校を全国各地で建てることが急務だったので、授業料に加えて学校の建設費まで国民から徴収することになった。

ただでさえ貧しいのに、国家側が国民皆学を奨励し、授業料等を徴収されるわけだから、一部の庶民は反発し、一揆が起こった。

そのほかに、明治政府が力を入れたのは、「教員ノ事」と「海外留学生規則ノ事」に関する篇が作られたように、教員養成と将来の人材育成である。

まず、国内において教員確保は難しい状況だったので、アメリカやイギリス、ドイツなどから外国人教師を招いたのである。

1876年に開校した札幌農学校においても、こうした教育改革の一環で、アメリカ人の教育者であるクラーク博士が招かれた。

「ボーイズ・ビー・アンビシャス!」(少年よ大志を抱け)の言葉で有名なクラーク博士は、札幌農学校の初代教頭だったのである。

札幌農学校は、今は北海道大学になっている。

そして、明治時代の学制によって設けられた医学校には、あの文豪の森鷗外が入学した。

1881年に東京医学校本科を19才で卒業した森鷗外は、陸軍軍医として任官され、さらに3年後は、衛生学の研究のためにドイツ留学を命じられた。

この森鷗外の留学経験が、のちに名作『舞姫』を生んだのである。

明治初期の教育制度は、後世にさまざまな影響を与えることになった。






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