【続編】歴史をたどるー小国の宿命(17)

織田信長が生まれる3年前の1531年、上杉謙信の「養父」だった上杉憲政(のりまさ)が、関東管領に就任した。

昨日の記事では、将軍に次ぐ最高の役職が三管領家であると解説したが、この三管領家とは別に、関東地方の守護を束ねる関東管領が、統治上、必要とされたのは想像に難くないだろう。

守護の留守役に、守護代を立てるのと同じである。もともと、鎌倉幕府があったところであるし、何より北条氏が残っていたわけだから、お目付け役は必要だったわけである。

関東管領は、初代将軍だった足利尊氏の時代から置かれていた。当初は、足利尊氏の四男である基氏(もとうじ)が鎌倉府の長官として「鎌倉公方」(かまくらくぼう)の役職を務めた。ただ、基氏がまだ9才だったので、それを補佐する関東管領に、上杉憲顕(のりあき)が就任した。

のちに、鎌倉公方の役職は、関東管領として引き継がれ、上杉氏が世襲することになったのである。

また、もともと、上杉憲顕は、尊氏が将軍だったときに、越後国(今の新潟県)の守護を務めていた。その越後国の守護代は、長尾氏が務めていた。

応仁の乱が起こったときは、長尾頼景(よりかげ)が守護代を務めていたが、この頼景の玄孫(孫の孫)が、長尾景虎であり、上杉謙信の幼名だったのである。

上杉謙信の「実父」は、長尾為景であったが、謙信がなぜ上杉姓を名乗ったのかというと、「養父」である上杉憲政から、関東管領を譲られたからである。

そのとき、憲政は自分の名前にある「政」の字を与えて、「長尾景虎」を「上杉政虎」に改名させた。

上杉謙信の実父である長尾為景は、すでに謙信が13才のときに亡くなり、謙信が養父の憲政から関東管領を引き継いだのは1561年であり、このときは31才になっていた。

関東管領は、室町幕府の重職であり、これを与えられるということは、それだけの権威があるという証である。

謙信が関東管領に就任する1年前の1560年は、知る人ぞ知る「桶狭間の戦い」があった年である。

このとき、今川義元は26才の織田信長に敗れて、41才で戦死した。

さて、上杉謙信といえば、武田信玄との川中島の戦いが有名である。関東管領になった1561年は、第四次合戦があった年であり、まだ終戦していなかったのである。

明日は、武田信玄の登場である。



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