20世紀の歴史と文学(1961年)

今日は、8月12日である。

もう1日ずれていたら、ピッタリ63年前の8月13日の出来事が紹介できたのだが、明日は1962年の話になるので仕方がない。

1961年8月13日、ドイツのベルリンに「ベルリンの壁」が建設された。

壁の高さは3メートル、「壁」の長さはなんと155キロであった。(=東京から軽井沢までの距離とだいたい同じである)

もっともすべてが壁で物理的に遮断されていたわけではなく、初期の頃は、有刺鉄線が張り巡らされていた。

また、川が流れているところもあったので、「壁」を越えようと思えば、泳いで行くことも不可能ではなかった。

この壁はなぜ建設されたのかというと、東ドイツの国民が、西ドイツに逃亡するのを防ぐためだった。

ドイツについては、本シリーズの1952年の記事でちょっと触れているが、当時は、アメリカなどの連合国軍とソ連軍によって、東西に分断されていた。

西ドイツは資本主義国側になり、東ドイツは社会主義国側になった。韓国と北朝鮮の対立構図と同じである。

1953年に朝鮮戦争が休戦となったのは、すでに解説したとおり、ソ連のスターリンの死去も一因としてあった。

そのスターリンの後を引き継いだのが、フルシチョフだった。

ただ、フルシチョフは、公然とスターリン批判を行い、資本主義国とは平和的な共存を図るべきだと主張した。

これに反発したのが、中国共産党であり、このフルシチョフのスターリン批判によって、中国とソ連の関係は悪化した。

一方で、アメリカのほうは、1961年1月に、あのケネディ大統領が就任した。民主党出身のケネディが、のちに暗殺されることになるのは多くの人がご存じだろう。

このケネディとフルシチョフが、6月に米ソ首脳会談を行なったのだが、東西ドイツの問題では、激しい応酬があったという。

ここで押さえておきたいのは、ベルリンは、東ドイツと西ドイツの境界線ではないということである。

勘違いしている人もいると思うが、地図上でドイツの中でベルリンがどこに位置しているかを見ると、東ドイツのほぼ真ん中(若干、東寄り)にある。

つまり、西ドイツにベルリンはなく、当時は、ベルリンも東ベルリンと西ベルリンに事実上、分断されていた。

東ドイツの人は、西ドイツに逃れるためには、西ベルリンにさえ入ることができれば、あとは(東ドイツ領内では)国境駅にしか停まらない直通列車もしくは空路で西ドイツへ脱出できたのである。

ソ連にとって、東ドイツ領内にベルリンがあるにも関わらず、ベルリン西部に欧米の影響力があるのは、目の上のたんこぶだった。

だが、ケネディ大統領とフルシチョフは、ベルリンの壁が建設されることを暗黙の了解とし、フルシチョフは、東ドイツの人々をこれ以上流出させて東ドイツ経済がさらに深刻化するのを防ぐ目的で妥協したのである。

こうして、ベルリンの壁は、1989年に崩壊するまで、長らく米ソ対立の象徴となった。

しかし、翌1962年には、世界を震撼させる核戦争の危機が起こった。

ここでも、ケネディとフルシチョフが最終的に危機を回避した。

その危機とは、何なのか。続きは明日である。









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