インドへの旅立ち編 〜ハーフボイルド家族〜
ハードボイルドを目指して
夫と結婚するまでの私は、わずかな自尊心にがんじがらめになって身動きがとれず、弱くて惨めな少女だった。中学から親元を離れ、ストイックに勉強して入学した大学では、その先の道を見失い、自分の生き方を見失い、周囲の新しい環境や刺激に面食らって、足がすくんだ。文字通り身も心もボロボロだった私は、すがるように夫と結婚した。
中学の先輩だった夫は、中学卒業と同時に休学し、インドへ旅に出た。何モノにもとらわれず、自由に自分の疑問を追求し、どんな障壁もいとも簡単に乗り越えて生きていく夫に、私は当時から憧れていた。
結婚してすぐ長男を出産すると、夫はまだ研修医の分際だったにもかかわらず、もっとゆっくり子育てをしたいから世界一周旅行に行きたい、と言いだした。結局1年間の留学にとどまったけれど、自由に、そして自分の正義に沿って生きていないと死んでしまうタイプの夫は、人生からドロップアウトしかけていた私と、4人の子供を従えてなお、やっぱり自由に、そして正義に則って生き続けたかったのだ。
自由と正義を掲げた船に乗り込んだ私と4人の子どもたちは、荒波に揉まれつつ、それぞれの根っこを形成しながら、自分の生き方を模索する。ボロボロだった私は、いつのまにか夫と一緒に船の舵を取り、時には率先して行き先を決める。知らずしらずのうちに、もっと知らない世界、もっと尖った生き方を求める船の旅を、私は家族の誰よりも楽しんでいた。
私達家族の、この不思議な変化の軌跡を記録しておきたい、とずっと思っていた。インドに移住してから、数々起こる出来事を追いかけるようにしてレポートを書いてきたけれど、ちょっと襟を正して丁寧に書いていってみようと思う。
題して…
「ハーフボイルド家族」
賽は投げられた
人口およそ3000人。人の数よりも牛の数の方が多く、日本有数の高原野菜の生産を誇る長野県M村。冬は−20℃に届く日もある標高1350mの小さな診療所に医師として夫が赴任してから、2年が経とうとしていた。
帰宅すると玄関先には立派な葉物野菜が毎日のように届き、ときには搾りたての牛乳や自慢の手料理をいただくことも。冷蔵庫に貼っておいたホワイトボードの記録によると、ひとシーズンで頂いたレタスはなんと約98玉。娘(当時6歳)の彼氏から蜂の巣の贈り物が届いたこともあった。
最初は知り合いが誰もいなかったこの村で、私はいつしかまるで生まれ故郷のように心安く生活していた。
夫は子どもたちと一緒に庭にブランコを作り、鉄棒をつくり、夏には近所の材木屋さんに分けてもらった板を組み立てて仮設プールを設置し、小さな家庭菜園でじゃがいもやズッキーニやトマトを育てた。
4歳と3歳で村に引っ越してきた長男長女にとっても、この村はふるさとそのものだった。村への引越しと同時期に生まれたハルは、生まれつき脳性麻痺で手がかかったけれど、村の人達にとても大切に育ててもらい、私よりも有名人になった。
「国連で働くための試験を受けたいんだけど」
ちょっとお小遣い欲しいんだけど、ぐらいのテンションで、その日夫は唐突に切り出した。ちょうど4人目を妊娠して数ヶ月のころのことだ。2本あるはずの臍帯動脈が1本しかなく、心臓疾患の疑いもあると言われ、にわかに不安に襲われていた。
「受験資格が35歳までだから、今年が最後のチャンスなんだ。海外での勤務経験もないし、受かるとは思えないんだけど、ダメ元で受けておきたいんだけど、、いいかな。」
上目遣いで夫が聞く。一度きりの人生だから、と目が言っている。
「ふうん。試験はいつなの。」
夫の転職先や転職の動機よりも何よりも、試験を受けに行くということは私がワンオペで子どもたちの面倒を見る日が近々やってくるってことだよね、いうことが真っ先に気になった。すぐに、車で2時間かかる実家の父にヘルプ要請だ。
村での生活はこれ以上ないほど豊かで居心地の良いものだったし、産後間もないうちに試験の日に夫不在になるのは大変だけれど、夫も私も未知の場所への憧れがあった。
私はたぶん、この日を待っていた、とさえ言える。
変化の時
その年の春、長男は地元の小学校に入学した。私は大きなお腹を抱えつつ、慣れない小学校生活に四苦八苦する彼のサポートと、保育園で兄と離れて情緒不安定な長女のフォロー加え、重度心身障害児であるハルに、なんとか村の保育園に慣れてもらおうと必死だった。
6月の終わりに出産した第4子は、生まれてみたら妊娠中に疑われた心臓疾患はなく、元気にこの世にデビューした。
ほっと胸をなでおろしたのもつかの間、そこから新生児レンチビの世話も加わり、キャパオーバー気味の私は夏が過ぎる頃には夫の転職の話などすっかり忘れていた。
「合格しちゃった。ダッカに赴任になりそうなんだけど…」と連絡がきたのは、9月の頭。子どもたちが保育園や小学校に行っていて、レンチビが落ち着いて寝ている僅かな時間に、スーパーで慌ただしく買い物をしているときだった。
「ダッカってどこダッカ?」と思いつつすぐにネットで検索すると、1年前のテロのこととか、世界で最も住みにくい都市とか、ネガティブなことが沢山でてくる。ポジティブな話題を探して図書館にいってもバングラに関する本はみつからず、とりあえずコーランを買ってトイレに設置することにした。コーランの内容を答えろとテロリストに突きつけられたニュースが私の記憶に残っていたからだ。コーランを勉強しておけばバングラ赴任も安心だろう。
そのうち私が好きなライターさんが書いたバングラデシュに関する本に出会い、なんだ、バングラ面白そうじゃないか、とホッとしたとたん、
「やっぱニューデリーにしてもらってもいいかって聞かれたけどいい?」
「やっぱ今日のメニュー肉じゃがじゃなくて豚しゃぶでもいい?」みたいなノリである。分刻みのスケジュールを頭の中で反芻しながら、おんぶしたレンチビが目を覚まさないうちにと忙しく動き回っていたときにメールが届いたものだから、
「どこでもいいよ!」とうっかり雑に返信してしまった。
実際、インドかバングラかは大きな問題ではなかった。テロの影響で日本人に行動制限があるらしいダッカより、ニューデリーの方が子どもへのストレスは少なくなるかもしれない。レンチビはおでこにビンディみたいなのがついてるし、ちょうどいいだろう。インドもバングラも、生活が想像できないという点で、とても魅力的だった。
危ないか危なくないかという話で言えば、日本にいたって日々リスクはある。むしろこのままキャパオーバーの四人育児を続けて行くほうがよっぽど危ない。
私達に必要なのは変化だった。
頻回なてんかん発作に悩むハルを出産して以来、夜中は何度も起きるのが日常で、新生児が加わってから夫婦揃って24時間オンコール、慢性的に寝不足の生活に、限界を感じていた。このまま寝不足が続くのか、続かないのか。変化が生活に具体的にどう影響するかはわからないけれど、このままではいけないと思っていたし、心はとにかく何らかの変化を欲していた。
何よりも、インドは20年前、16歳の夫が自分探しの旅の目的地に選んだ地であり、国際保健と地域医療を同時に志した地でもある。拒否する理由は一つもなかった。
こうして、私達のインド移住が決まった。
手探りで海を渡る
早速家族会議でインド赴任の話を夫が切り出すと、長男は「絶対にいかない!」と予想通りの反応を見せた。当然だろう。
「ママだって不安だけど、楽しいこともあるかもしれないよ、ないかもしれないけど。とりあえず、インドはカレー美味しいんだぞ。」
プラスになるのかならないのかわからない言葉で息子を説得。いや、嘘はつけないけれど、カレーが美味しいのはきっと確かだ。「カレーが美味しいならまあいいか」と納得する長男も長男。
長女はというと「パパはこういうことするためにお医者さんになったんでしょ。行ったほうがいいよ」と急に大人びた顔をしてサラリといってのけた。
人間化する前のレンチビはいいとして、一番の懸念はハルである。生まれつき脳性麻痺で、座ることはおろか、首さえ座っておらず、しゃべることもできない全盲の彼女が、インドに行って社会的に差別をうけたりいじめられたりしないだろうか。彼女は文化的に受け入れてもらえるのだろうか。
ハルの主治医は、「え?インド?普通行かないよね?」と呆れ顔をしつつも、英語の紹介状を作ってくれた。
頻回なてんかん発作がある彼女は常に発作を抑える薬が必要だ。インドに行っても病院を探して主治医をみつけ、きちんと服薬を継続しなければいけないし、筋緊張が強い彼女のためのリハビリも継続したい。できれば彼女の良いところを引き出してくれるような教育もあったら嬉しい。
そんなことを考えながらネットでいろいろと検索してみるが、ほとんど確かな情報は引っかかってこない。ハルのような子がインドにもいるのかどうか、病院できちんと薬を処方してもらえるのかどうか、薬が手に入るのかどうか、特別支援学校があるのかないのか、あるとしたらどのような教育が行われているのか、リハビリはどのように受けられるのか。
ハルのようにいわゆる重症心身障害児といわれる子が、海外、それも途上国に移住する、というのはなかなか例がないのだろう。情報はさっぱりだった。
解ったのは、すべてを手探りでやっていくしかない、ということ。
正直、不安はあった。紆余曲折を経ながらもハルのために整えてきた環境をすべて捨て、吉と転ぶか凶と転ぶかわからない場所に飛び込むのは勇気がいる。もちろん長男長女も不安定になるだろう。彼らと、彼らよりも敏感なハルを、私は母親としてきちんと受け止められるのだろうか。いっぱいいっぱいだった4人育児をこのまま惰性で続けるのが怖くて望んだ変化だったけれど、それが正しい選択かどうかはわからない。たぶん、誰にもわからない。
もしかしたらハルにとっては過酷すぎる環境がまっているかもしれない。ただ、それがきっかけで一皮むける可能性もある。その、もしかしたら有るかもしれない可能性をつかむためには、やってみないことには始まらないのだ。
子育ては得意じゃないけど、手探りなら結構得意だ。不器用な私は、いつだって手探りでもがきながら生きてきたし、それが人生の醍醐味だということも、うすうす気付いている。
人生は、やってみないとわからないことだらけだ。やってみてもわからないことだって沢山ある。理解可能な範囲に自分自身をとどめておきたくない。ハードボイルド、とまではいかなくても、ハーフボイルドぐらいにはとがっていたい。たとえ子供がいても、たとえ子どもに障害があっても。
地球は広い。美しい自然と温かい人達がいるこの村だけが地球ではない。ある国ではそもそもハルのような子は生きることができないのかもしれない。違う環境・違う文化で生きる様々な地域の人達に、それぞれに誇りがあり、それを尊重して生きていくことを、子どもたちには知ってほしい。
船は進む
実父と渡印前にスカウトした18歳の女子大生をヘルプに従え、総勢8人で私達がインドに降り立ったのは、2018年11月10日。ディワリと呼ばれるインド最大のお祭りの翌日で、最も大気汚染がひどい日だった。着陸が近づくと、あからさまに日本人ばかりがマスクを装着する光景は、なんだか異様に見えた。空港に降り立った瞬間から異臭がたちこめ、空気は明らかに霞んでいた。
よどんだ空気を眺めながら、それでも私は確実にワクワクしていた。本当にどうにもダメだったら戻ってこよう。苦しくなったら逃げたっていい。一度きりの人生だから。
夫の口癖は、いつしか私の口癖になっていた。
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インドに渡って間もなく1年半。
医療とは切っても切り離せない肩書を背負った夫と、医療の支えがどうしても必要なハル、そしてそれを身近に見ながら自分の進む方向を模索する長男長女、そしてレンチビ。マイペースにインド生活を楽しむ妻(私)の思考記事もこれまで通り時折交えながら、これからもレポートを続けていく。
というわけで、記念すべき(?)タイトル決定後の第1号記事は、これまであまり書いてこなかった長女について書く。
「女性性」を否定も強制もしないしない子育てがしたい
(数日後に公開予定。)
お楽しみに!
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