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長女のピアスとルパンの思い出

「ピアスあけてけてみよっかな」

8歳の長女がある日言い出した。

「いいじゃん、この前アラハバードからうちに来たFちゃん(20歳)はインド人の友達に安全ピンでプスッて開けてもらったらしいよ」

「えー安全ピンで?それはちょっと・・・!」

フラフラしていて気まぐれで内向的な長男にかわって、率先して下の子達の面倒を見る長女。社交的で友達も多く、誰とでも仲良くする。

ふだんあまり話題にあがらないので、特に問題のない子なのだろうとお察しのみなさま、ご安心ください。実はちゃんとそれなりにトラブルを起こしております。それも日常的に。

実際、4人の子どもの中で一番気をつけて育児をしているのが長女かもしれない。彼女はかつての私であり、同時に、私とはまったく別の人間だから。

女性性の表現を否定しがちな日本の教育

長女は幼い頃から主張がはっきりしていて、おしゃれや髪型にうるさかった。2歳になる頃には、自分で気に入った服じゃないと着なかったし、思い通りの髪型にできないと朝から泣き崩れた。いくら柄オン柄がおかしいよと言っても自分がいいと思ったらおかしな格好で出かけていいったし、私の服装や髪型には昔から厳しい。1歳年上の長男とは明らかに違った。

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インドにきて、多国籍のお友達がいる学校に通うようになると、周りの女子たちは当然のようにピアスをつけたり、流行りのチョーカーを首につけたり、ポップなネイルをして楽しんでいた。当然ながら髪の色はブロンドだったりブラウンだったりレッドだったりみなそれぞれだし、宗教的な理由で赤ちゃんの頃からピアスの穴をあけたり、指輪をつけたりすることもあるらしい。

ありがたいことにインドではお店でネイルをしてもらっても100ルピー(150円)前後と格安である。私の手持ちのネイルポリッシュでペイントすればほぼコストはゼロだ。長女も当然のようにネイルをし、アクセサリーを身につけて学校に行くようになった。そこで最近、ピアスをあけたいな、と口走るようになったのだ。冒頭での会話の通り、開けてみたら、と私はそっと賛成している。ちなみに私自身は開いていない。

日本だったら、小学校にネイルをしていくなんて規律が乱れる、と言われるのだろう。ピアスなんてもってのほか、だろうか。せっかく五体満足に生んでもらったのにピアスの穴を開けるなんて、とも言われるかもしれない。

でも、本当のところ、どうしてなの?

たとえば爪に色をぬる、っていうのはすごくシンプルでわかりやすい遊びだ。実際、2歳のレンチビも毎回参加して楽しんでいる。

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画用紙に絵の具で絵を描くと褒められるのに、自分の爪をペイントすると叱られる理由も、お休みの日にかわいくしたネイルを月曜日になると除光液で落とさなくてはならない理由も、私は子どもに説明できない。(むしろ、除光液は爪を痛めるから一度塗ったらしばらく落とさない方がいい。)どうして自分を可愛らしく見せるための試行錯誤や努力を、規律とか他人の五体満足信仰とかで禁止されなくてはいけないのだろう?

本当はそう疑問に思っている大人も多いのではないだろうか。かつて女子だった多くの大人の女性たちが、校則をいかにすり抜けておしゃれをするかということに心を砕いた経験を持っているはずだ。

おしゃれをすることで規律が乱れるというのは、その集団が脆弱すぎるからではないか。本来は精神的な帰属意識や絆をもってつながるべきなのに、目に見える形の規律で縛らなくては集団を維持できないというのは、言い訳にも聞こえてしまう。問題はもっと別のところにあるのかもしれない。

むしろ私は、本人が望むのであれば、ネイルをしたりアクセサリーをつけたりして、どうやったら自分が一番良く見えるのか、あるいは自分の心が一番安定するのか、試行錯誤してほしいと思っている。そういう行為を通して自分の性を自覚したり、自分が自分であることのアイデンティティを育んでいけるのなら本望だ。

決してネイルをすることがいいとか、アクセサリーを付けることがいいとかそういうことを言っているわけではない。(私は爪が弱いのでほとんどネイルをしないし、結婚してからは、ほぼほぼ夫にもらったアクセサリーしかつけていない。)その人にとって、どういうふうに振舞うのが、他者と自分とのバランスを保つ上で有効なのかは、本人の試行錯誤なくしては分からないし、そういった試行錯誤こそアイデンティティの確立には必要不可欠だと思う。

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だから、おしゃれのための何かをしていいか?と子供から聞かれたら、親である私が頭ごなしにいい悪いを決めるのではなく、私の考えを添えて、そっと提案するカタチで返事をするように心がけている。

「ママは、これは誰の迷惑にもならないし、あまりお金もかからないし、あなたを素敵に見せると思うからいいと思うけど、あなたはどう思う?」

彼女の心がそれを求めているのなら、女性的な振る舞いをとことん追求すればいい。結果としてどのようなものが彼女の中に残るかはわからないけれど、いずれ「女性性」あるいは「女性らしさ」の問題に直面することになるのだから、早くからそれと向き合っておく方がいいと私は思っている。

大事なのは、自分のあるがままを受け入れることができるかどうか、だ。女性であることも含めて。

もちろん、家族や友達との時間、やるべきことに集中する時間など、当たり前の優先順位の中に、適切におしゃれを位置づけることも忘れてはいけないけれど。

ルパンとともに追いやった私の女性性

多分それが、私にとっての性の目覚めだったのだろうという思い出がある。小学校低学年の頃、学校から帰宅したあと祖父とおやつを食べながらアニメのルパン三世を見るのが好きだった。アニメの中に出てくる「ふじこちゃん」は子供の目から見てもナイスバディでセクシーで、いつもドキドキしながら見ていた。ふじこちゃんが悪者にさらわれ、エッチなことをされそうになるところにルパンが助けにきて、でもやっぱり結果的にルパンがふじこちゃんにエッチなことをしようとする、というところでエンディングを迎えるパターン。私はなぜだかその場面を見るたびにドキドキした。夜電気を消して布団に入ったあともその場面を思い浮かべ、そうするとやってくる独特の感覚に戸惑いながら、でも多分、その興奮を幼かった私は楽しんでいたと思う。なんとも言い表せないあの感じを、当時は言葉にすることができなかったし、そもそもなんだかイケナイことをしているような気がして大人には言えなかった。たぶんあれが、私にとってのはじめての性的な体験だったのだと今は思う。

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思えば、幼い頃の私はある意味で洗脳されていたのかもしれない。繰り返し見ていた映画は、「長靴下のピッピ」「モモ」「サウンドオブミュージック」。どれも、天真爛漫でおてんばな少女が主人公で、強くたくましく自分の力で道を切り開いていく様子が印象的な名作映画だ。

私は知らず知らず、“天真爛漫でおてんばで、サバサバしていて強くたくましい女”がよいのだ、あるいはそうでなければならない、と思い込んでいたように思う。小学校では、女子特有のグループの輪には入らず(入れず?)、男子とドッチボールをするのが良いのだと思っていたし、私の髪はいつも男の子のようなショートヘアーだった。

鏡の前に立って髪の毛をいじったり、可愛いらしい服や小物を探したり、そういう女性的なことを、教育者だった両親は、真面目に生きていく上で邪魔なものだと考えていたのかもしれない。姉妹だったのに私達姉妹はほとんどお人形遊びをした記憶がなく、代わりにキャッチボールの道具が玄関においてあった。少女漫画の代わりに読んでいたのはドラゴンボールと金田一少年の事件簿。当然我が家はくだんのルパンの話をできるような雰囲気ではなく、私はNHKスペシャルを一生懸命見るふりをしながら、ふじこちゃんのことを考えるとやってくるあの感覚はなんなのかで頭はいっぱいだった。一度もその話を家族にすることはなかったし、私が女性的なものから遠ざかれば遠ざかるほど、両親は安心しているように見えた。

高校でアメリカに留学した姉が、ネイルや香水などですっかり女になって帰国した後、父はものすごい剣幕で姉を叱り、「勉強に邪魔だから」とダンボールにネイルポリッシュやアクセサリーを詰め込んで物置に放り込んでしまったことを、今でも鮮明に覚えている。

私はいつしか自分を女性的に見せることをいけないことだと思うようになり、ルパンの思い出を、もう記憶に呼び起こせないくらい、自分の中の奥の奥においやった。そうしていつのまにか、自分で自分の女性性を否定するようになった。

女らしさの押し付け

ところが大学に入ると突然周囲が私を女として見るようになり、私は女として振る舞うことを期待されるようになった。これまで悪いことだと信じて抑えてきたはずの女性的な部分が、今度は周りに求められているように感じて混乱した。私は周囲の期待に沿って、なんとか自分の中の女を呼び覚まそうと努力するようになり、唐突にあのふじこちゃんのことを思い出したのだった。

私は性についてそれまで考えることも学ぶことも体験することもなく、ふじこちゃんの記憶のまま止まっていた。私は男性と付き合うことの意味も、男性と触れ合うことの意味も、何一つわからないままだった。

急速に女であることを求められるようになって混乱した私は、いつしか「美しさ」と「女らしさ」を混同するようになっていった。

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汚さや醜さが人間の一部であり魅力である、ということが、今ならわかる。けれど、当時の私は完璧な美しさが女らしさだ思い込み、汚く醜い自分の内面や行為を見つけては途方にくれ、次第にそんな自分のままで他人に会うことができなくなっていった。美しくない私は期待される女らしい女ではく、そんな自分を他人に見られるくらいなら死んだほうがマシだと本気で思っていた。私は「美しさ」の意味を完全に見失っていたし、女らしさをどう表現したらいいのかも知らなかった。

女性である自分をきちんと受け入れてあげよう、と思えるようになったのは、心身のバランスを崩し、社会生活から遠ざかって、改めて自分と向き合ったときだった。自分がこれまで築いてきたきた他人との関係性に違和感を発見し、同時に「美しさ」の意味をずいぶん長いこと取り違えていたことにも気が付いた。

女性性を否定も強制もしない

今の私は、自分の女性性を自然と受け入れられていると思う。もちろん結婚や出産も大きく影響しているけれど、家族をはじめ、信頼できる友人や考え方に出会い、自分をありのままに認められるようになったからだ。

美しさの意味は、まだまだ模索途中ではあるけれど、それなりに分かってきたつもりだ。たとえば、何があっても動じない自然の姿。誰かをまっすぐに愛せるということ。自分の根っこに逆らうことなく、揺るぎない生活を積み上げていくこと。美しいな、と思うことは様々な形でこの世に溢れていた。

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長女は幼い頃から確かに女性性を持っていたし、表現しようとしていた。私は彼女が彼女なりに自分の女性性を育んでくれたらいいと思っている。女性らしさを不自然なカタチで抑えることは、他人と自分を正しく認識し、健全な人間関係を育む上で障害になることを、私は知っているから。

女の子の子育てで、女らしさを否定しない、なんて、何を当たり前のことを、とお思いだろうか。そうかもしれない。けれど、この「女性性」の扱いというのは結構やっかいなのだ。

男子と対等に勉強や運動を頑張れ、と教育過程で言われてきたのに、社会に出てみると女性らしく振る舞え、と言われ、母になったら母親らしく子育てに集中しろ、と言われる。過度に女性性を抑えつけると、可愛げがないとか冷たいとか下品だとか言われ、かつての私のように自分が女性であることを上手に受け入れたり表現したりできなくなることもある。逆に女性性を出しすぎると、ぶりっ子だとか女を武器にしているとかせこいとか言われ、時に多くの女性を敵に回す。アンバランスな日本社会の中で、このやっかいな「女性性」をどう扱ったらいいか、持て余している女性は結構いると思っている。

だから娘が、今、ピアスを開けてみたいというのなら、開けてみればいいと思う。アンバランスな社会の中に出ていく前に、確かな自分らしさ(女性性)を身につけ、自信を持って彼女らしく生きていってほしいから。そのために必要な試行錯誤はどんどんやればいい。

子供たちが何らかの内面的な自覚を持った時、それが女性性であれ、男性性であれ、ほかのアイデンティティに関わることであれ、押さえ込むことなく、しかし強制することもなく、そっと寄り添いたい。本当は、社会もそうあって欲しい。

もしかしたらこれは、ほとんど野放しの子育ての中で、私が唯一意識している子育ての方針かもしれない。

その意味で、長女が矛盾を孕んだ日本の教育からこのタイミングで離脱できたのは、良かったのかもしれない。存分に格安インドネイルを楽しみ、30ルピーから買えるアクセサリーを身につけて、なんだったらブスっと耳に穴を開けて、彼女の女性性を探求したら良い。

強すぎる長女の名言集

女性性を否定も強制もしない子育ては、同時に自己表現を尊重する子育てに通じているのかもしれない。

今現在、表現することを厭わない長女は、ものすごく強い。強すぎるのではないかとやや不安になるくらいである。インドに来たばかりで英語がさっぱりわからなかった彼女は、担任の先生に力強い日本語で「何言ってるかわかんないんだけど!」と叫んだらしい。もちろん先生は日本語はわからない。

インドの学校に通って1年経った頃には、エクアドル人に意地悪をしていたジンバブエ人に、「you’re not supposed to do that! (そういうことやっちゃいけないんだよ)」と言ってやったとスッキリした顔で報告を受けた。

空港でチェックインの列を割り込みしてくるインド人(大人)には「you can’t cut the line(わりこみしちゃだめだよ)」と堂々と注意をし、レンチビのワガママに振り回された挙句に出た言葉は「thank you for wasting my time!(私の時間を返して!)」

こういった彼女の言葉や表現が、私の子育て方針の結果かどうかはわからないけれど、混沌としたこの世の中に飛び立つ前の下準備としては、心強く感じている。長女よ、いつかその自信が砕け散る出来事があっても、いつか血の涙を流すほど悔しい出来事があっても、自分の内側から湧き上がってくるものを表現することだけは、やめるんじゃないぞ。自分を表現することは、自分を認めることそのものなのだから。

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というわけで、次回は、性に興味を持ち始めた長男について書こうと思う。お楽しみに!






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