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扉の記憶から考える アートについての仮説

全くお正月モードではないニューデリーの我が家ですが、元旦には夫がお雑煮を作ってくれたので、コリアンダーを乗っけて食べたら、案外合うではないか。そんなわけで、書きたいことが山積みのインド雑記を一旦お休みして、今回は新年らしく思考の整理メモを残すことにする。

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といっても実はこのポストは2018年の6月に長年の友人であるユリエさんが遊びにきてくれたあとから書き始めていた。しかしなかなか納得してまとめ上げることができず、インドに持ち越してしまったので、とりあえず新年の初めに現段階でのメモ。


足を止めると思い出す扉のこと

頭の中が決定しなくてはいけない数々のことで溢れていた。

毎日のご飯はもちろん、連絡帳に書く内容、こどもを叱るのか叱らないのか、はたまた褒めるのか、はるかの機嫌を見極めてのご飯をあげる時間と寝かせる時間、それに準じて決まる買い物に行くタイミング、4人の子どもたちを順番に迎えに行く時間と買い物をする時間(マジで分刻み)、合間に家事をやるタイミング(ゲリラ的に)、はるかの体を動かしてあげる遊び方と時間、夫やその他はるかに関わる人にもわかるようにノートに残す方法、明日買い物をしなくてはならないもの、洗濯物をたたむタイミング、インドに引っ越す日のこと、引っ越しの準備、学校を転校する準備、子供の写真を整理しなくちゃ、レンチビの予防接種、学校の準備物、こどもたちの習い事の送迎とおやつ、おにぎりを握るタイミング、歯医者の予約いつにしよう、児童クラブの利用申請はどうしよう、福祉書類の更新はどうしよう、明日の朝しかけるお米は何合にしようかー。

決めなくてはいけないことが自分のこと以外にも沢山ありすぎて、パズルみたいだ。処理しきれないほどの決定事項の数々のために普段は立ち止まって考える隙間なんてないけれど、時々はっとしてうんざりして途方にくれる。


足を止めると、いつも思い出す一つの扉がある。

それは下北沢の地下にあった、小さなライブハウスの重たい扉。

12年前の冬、いかにも重たそうな防音の扉を前に、本当にこの扉を開けて中に入っていいのかどうか、自分を守るような気持ちで被っていた茶色いニット帽の毛糸の花飾りを触りながら数秒の間悩んで、それからエイッとその扉を開けた。あのとき、爆音が鳴り響き、あちこちを照らし散らかす照明の中で、見ず知らずの私に話しかけてくれた人がいた。

「名前は?」

聞かれたのはそれだけだった。仲間になるのに必要なのは、私の名前と、私の存在と、音楽だけだった。学歴も、住んでいる場所も、家族の情報も、何も必要なかった。そこではみんなが音楽を通じてフラットにつながっていた。

 大学に入った後、自分の行き場を見失っていた私は、そこで初めて鎧を脱ぎ捨て、裸の私として自由になった気がした。音楽に特別詳しかったわけではないけれど、言ってみれば、扉のむこうはスポーツを観戦する一体感のようなものに包まれていて、すぐに私はその世界の住民になることができた。

 そこから新しくひらけた世界があった。ライブハウスにはもちろん何度も足を運んだけれど、他にもいろんな形でくり広げられる表現活動がとてもおもしろいと思った。

 今でも印象に残っている、小さな劇場で見た即興ジャズダンスは生命力に満ち溢れていて、ほとんど私は恋に落ちた。素敵女子イラストレーターの展覧会では、彼女のキュートなルックスと違わぬキュートな世界に心が踊った。いつも大きな黒いハットとでっかいモチーフの指輪をしていた19歳の女の子と、三島由紀夫について深夜に意気投合した。(大学で文学を学ぶよりもはるかに感覚的で、でもとてもしっくりきて楽しかった)写真家の卵の女の子の共同展示を見に行った中野のギャラリーでは、なぜか入り口でホットケーキを焼いてください、と言われた。それがアートだと言われた。アートってなんだろう、と思った。同時に、それがアートなんだ、と何故か納得して、そしてホッとしている自分もいた。(ホットケーキだけに!)

 私がそれまで生きてきた世界(ガリ勉だった)には、そんなことを言ってくれる人が近くにいなかった。もしくは言ってくれていたのかもしれないけれど、当時の私の耳には届かなかった。

 私は美術館に行くようになった。舞台にも、ギャラリーにも足を運んだ。世界はこんなにも沢山の哲学と表現に満ち溢れていた。なんだ。そうだったのか。私は心底ホッとして、ようやく人生を歩み始めたかのような気分になった。初めて地に足がついた気がした。

ユリエさんのこと

 何年ぶりだろう、あのとき扉の向こうで最初に私に話しかけてくれたユリエさんが、大家族になった我が家に遊びに来た。出会ってから12年。当時、すぐに仲良くなって彼女のアパートの近くに引っ越した私は、いつも困ったことがあると(なくても)勝手に彼女のうちにおしかかけた。仕事帰りに駒込のすき家でいつまでも牛丼と水だけで話をしたことも、明け方のジョナサンで朝ごはんを食べたことも、王子の公園で真夜中に歌を歌ったことも、誕生日に駅前の「呑兵衛」という居酒屋で焼き鳥を食べたことも、全部私の心の糧になった。育った場所も環境も全く違ったけれど、だからこそとても素直につながることができた。

 久しぶりに会った彼女は以前と全然かわらなくて、一緒にパスタをたべたり、子どもたちの相手をしてくれたり、洗濯物を畳んだりしてくれた。長女は自然と「ねーちゃん」と呼んで懐いていたし、長男は「みてて!」を連発しながらミニトマトの苗を植えてみせた。

ユリエさんと人生の中で時々会うことは、私の原点を確認する大切な機会であり、彼女が私の家族ととても自然となじんでくれることは、私の今の生き方を肯定してもらっているような気がしてとても安心する。

「コミュニティ」の先に広がっていたもの

 あのライブハウスの扉は、私にとって「コミュニティ」の原点だったと今は思う。あの扉を開けたことで凍りついていた私の人間関係が溶け出し、垣根を超えて世界が広がった。私は自分を取り戻したような感覚を得た。卒論でつながりについて考えていたときも、TEDxSakuをやったときに「コミュニティ」について突き詰めて考えたときも、いつもあのライブハウスの扉が頭の片隅に浮かんでいた。

 そこにあったのは、音楽を通じてあらゆる垣根をとりはらったゆるやかであたたかな人のつながりだった。大学生も、写真家の卵も、フリーターも、10代の女の子も、みんな同じに肩を組んでいた。

 私にとって「つながり」とそれに準じる言葉にはいつも、あのライブハウスの扉と、その先に広がっていた世界が紐付いていた。そしていつもそれは、私の心を軽くしてくれる。足を止めるとあの扉とあのときの体験を思い出す。日常に埋もれて息ができなくなりそうなときこそ、あのコミュニティの先に広がっていた実に自由で豊かな時間が必要なのだ。

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 コミュニティがうまく機能すると、垣根が取り払われていろんなバイアスがなくなり、世界が広がる。

 そしてコミュニティがうまく機能するために必要なものは、「生きるためにどうしても必要ではないけれど、あったら豊かになるもの」ではないかと、少ない人生経験の中からぼんやり考えている。あの扉の向こうで、「音楽」がみんなをつないでいたように。

 誤解を恐れずに言えば、その「生きるためにどうしても必要ではないけれど、あったら豊かになるもの」ということこそが「アート」なのかもしれないなあ、と、最近考えている。

 日本語で言う「芸術」ほど気品のあるものではないけど、「文化」ほどただっぴろくないもの。音楽ももちろんそうだけれど、漫画とか、本とか、料理とか、スポーツとか、旅行とか、お絵かきとか。そういう他愛もない引き出しを沢山もっている人は、とても豊かな人間関係を築けるのではないか。

 そして実は、その一見無駄に思える「アート」は、案外生死の問題に直面した時にその威力を発揮すると、私は思う。ある人が持っている「アート」は、いわばその人が生きていく上で柱となる部分を支えるものなる。その人のアートがどれだけ広く多様であるかが、その人が生きる柱の大きさに比例する。一見不必要なものなのだけれど、それがないと生きる柱は不安定になってうまく生きられないし、多分うまく死ねない。

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子供たちの「アート」 

子供は無駄なことばかりしている。無駄な喧嘩、無駄な走り回り、無駄ないたずら、無駄な石集め、無駄な虫とり、無駄なお絵かき。だけどそれってもしかしたら、こどもの哲学を形成する上でとっても必要な「アート」活動なのかもしれない。

 よく私は子どもたちに「無駄なことしてないで、さっさとやるべきことをやりなさい」というけれど、それはもしかしたら美味しい食事の時間をカロリーメイトにしちゃいなさい、と言っているようなものなのかもしれない・・・反省。

 ハルにっとっての「アート」はなんだろう、と考える。自分の意志で動いたり食べたり見たりできないハルは、ともすると必要最低限<食べさせてもらって、おむつをかえてもらって、寝る>ということだけで日々が過ぎていきがちだ。しかし、「アート」が生きる哲学なのだとしたら、ハルにだってアートが必要だ。

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風が頬を撫でる感覚、兄・姉の歌声、弟の指がペチペチと触れる感触、家族からのキス、体が揺れる感じ。普通の子供は無駄な動きをして自分なりのアートを獲得していくけれど、ハルのアートは私や家族が働きかけてやらなくてはならない。何が心地よい?なにがおかしい?なにが食べたい?どこに行きたい?なにが悲しい?

昨年の夏に生まれて初めて登山をしたハルは、暑さでずっと眠っていたけれど、父の体に抱っこされながら、変化する振動や、山の中の気温の変化や日差し、すれ違う人たちの声、山の生き物たちの音を聞いていただろうか。

夏休みに家族で行った宮古島では、海の水に身を委ねて、とても気持ちよさそうに海水浴をしたし、木陰の下で砂まみれになって気持ちよく昼寝をしたはるか。きれいな海を見て歓声をあげた私の横で、海の匂いを嗅いでいただろう。見えないハルのまぶたの裏には何が写っていたのだろうか。

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数々のトラブルにもめげず、「生きる!」を全力で全うしているハルのアートプロジェクト

 今回のインド行きは、ハルにとっての必要不可欠な移動ではない、というかむしろ普通はそんな大移動しないほうがいいのかもしれない。でもだからこそ広がるものがあるかもしれない。これを機にハルのアートと生きる柱となる哲学が広がるとよいなという気がしている。

ハルの存在そのものが私や家族にとっての「アート」だった

そして迎えた11月。

ハルはインドにやってきた。言葉も気候も人も匂いも食べ物も、すべてが今まで経験したことのないインドにやってきた。はるかとインドにやってくる時、やっぱり私はあのライブハウスの扉を思い浮かべていた。未知の世界への扉。だけどこの扉をあけたら、想像もしなかった自由で豊かな世界が広がっているかもしれない。そんな気持ちでインドにきた。

ところがインドにきて今感じているのは、あの扉の向こうの「音楽」のような役割を、実ははるか自身が担っているのではないか、ということだ。ハルの存在そのものが、あらゆる垣根を取り払ってくれているような気がする。つまりハルの存在自体が、私や家族にとって「アート」の部分になっていて、私達の生き方の大切な基準を支えてくれている

はたして逆に私はハルのアートをきちんと伸ばしてやれているのだろうか、はたまたこれまで伸ばしてやれてきたのだろうか。ハルだけではない、無駄を削ぎ落とすことばかり子供に要求してきた私は、こどもたちのアートを伸ばすチャンスをうっかり見落としてきてしまったのではないか。

人生には、何度でも扉が必要だ。

生きるために不可欠な、自分のアートを広げるために。そして扉を開くまでは気が付かなかった、知らなかったアートの世界を知るために、私は何度でも扉を開く。

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2019年、今年はきっと、楽しくなる。



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