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最後一人旅①: アートを自覚して生きる

この記事は、息子と二人旅のスピンオフ記事である。

そんでもって遅くなってしまったけど(もうじき1月終わる!!)これをもって、年始恒例の思考の整理記事としたい。

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実家にたどり着いて息子に別れを告げたあと、残りの日本滞在4日間は、ちゃっかり自分のために時間を使わせてもらうことにした私。(息子、あとはどうとでも好きに2週間すごしてデリーに戻っておいで…)

今回の旅は、もちろん息子が主役であって、私は息子のサポート役のつもりだったのだけれど、個人的には「アートと健康」をこっそりテーマに掲げていた。いや、旅のテーマなんて言ってしまうとたいそうな印象になってしまうかもしれないけれど、「アート」にかんしても「健康」にかんしても、私は別に専門家でもなんでもない。だからこんなふうにテーマ!として掲げるのは忍びないのだけれど、ただただ、自分の頭の中を整理したいと思っていた。

アートに関わる人への憧れと仮説

アートについて考えてみたいと思ったのは、これまで出会ったアートに関わる人達がとても魅力的な人だったからかな、と思う。私自身はきちんとアートを勉強したこともないし、アーティストのようなセンスもない。むしろその対局の人生を歩んできたと言っても過言ではない。つまり、生活に必要なもの以外なかなか買えない人だった。これまでの人生で、飾り物とか絵とか、そういうものを買って楽しむ、ということをあまりしてこなかった。必要最低限を揃え、住空間には必要なもの以外は置かない。シンプルイズベスト。教育者である両親の家庭で育ったことも大いに影響していると思う。

それでも、ときに強烈に記憶に残るアート作品に度々どきどきさせられてきた。私はアートをもっとわかりたいと思うようになり、魅力的な人たちに近づきたい、そして認められたい、自分も仲間になりたい、という憧れに似た気持ちを持つようになった。同時に、自由に生きる魅力的なひとたちとかかわるうち、もともと私の中にテーマとしてあった「健康」に、アートは深く関わっているのではないかと考えるようにもなった

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私の仮説はこうだった。

アートは、「必ずしも生活には必要ではないけれど、あったら豊かになるもの/こと/行動」であり、一見不要にみえるけれども、人生の重大な判断や決定のときに、実はとても大事な軸になるもの。そしてそれは、コミュニティを機能させたり、時には人間関係を遮断したりするためにも重要なのではないか。ゆえに、アートに親しみ、或いは自分の中にアートを持って生きている人たちは、より健康や幸せを感じられるのではないか。

だとしたら、一見無駄に見えて、必ずしも生活に必要でないもの(アート)に対して、みんなもっと寛容に、あるいは貪欲になってもいいのではないか。もっと解放してあげたっていいのではないかー

子供は無駄なことばかりしている。無駄な喧嘩、無駄な走り回り、無駄ないたずら、無駄な石集め、無駄な虫とり、無駄なお絵かき。だけどそれってもしかしたら、こどもの哲学を形成する上でとっても必要な「アート」活動なのかもしれない。
重症心身障害児として生まれたハルにっとっての「アート」はなんだろう、と考える。自分の意志で動いたり食べたり見たりできないはるかは、ともすると必要最低限 <食べさせてもらって、おむつをかえてもらって、寝る>ということだけで日々が過ぎていきがちだ。しかし、「アート」が生きる哲学なのだとしたら、ハルにだってアートが必要だ。

(参照:扉の記憶から考えるアートについての仮説

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しかし、こんなことをなんの専門家でもない私が主張してみたところで、見当違いだったらどうしよう。研究者のようにきちんと証明していく必要があるのだとしたらどうやって検証したらいいのか、あるいは別のアプローチがいいのか。どうしてもこの考えについて、自分の中ですっきりさせてみたい思いが募り、とにかくまずは、自分にできるやり方で確かめてみることにした。

諦めて受け入れる

「アート」という言葉を、言葉として最初に意識するようになったのは、2014年、TEDxSakuを通じて出会った佐久市望月のfenburger houseというプライベートミュージアムを訪れ、鑑賞した後に友人たちとティーを飲みながらした雑談がきっかけだった。「諦めてアートを鑑賞する」ということを、館長のロジャーが話していたと思う。諦めてその空間に身を委ねる、という意味だったように記憶している。

諦めて何かを受けいれる、ということは、考えてみると現代社会の中で失われつつある。何もかもが手の届く場所にあり、手軽に入手でき、手軽に必要なものが必要なときに揃ってしまう社会。

だから「死」という抗えない事態に直面した時、ほとんどはじめて「諦めて受け入れる」という大きな経験をすることになり、大きな戸惑いと動揺が生じる。

「いろんなことを諦めてこの空間に身をおいて、じっくりとアートを鑑賞することは、死を受け入れる一種の訓練になる。」

その時ロジャーが言ったような気もするし、一緒にいた友人が説明してくれた言葉だったような気もするし、ずいぶん前のことなのでもはや定かではないけれど、少なくとも私はそう解釈して記憶に残し、そしてそれはとても心に響く考え方だと思った。私はすっきりと、堂々と死にたいと常々思っていたから。

あらゆる予定やあらゆる日常生活から一旦距離を置いて、目の前にある「山に、ただひたすら登る」ということも、もしかしたらこれに似ているかもしれない。

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今回いろいろな人にお話を聞く中で、再びといっていいのかどうか、「諦念」という言葉に出会った。読書の森の依田さんから聞いた言葉だ。息子と昼間じゅう焚き火をし、夕刻には俳句会を楽しんだ翌日の晩餐のこと。アートってなんでしょうか、という話をしていて、「元来は技とか技術とかという意味だけれど、最近はradicalという言葉がいいと思うんです、美的なセンスを育むもの。根っことか根幹とか根源とかそいうものじゃないかな」と依田さんが言って、「諦念」は、その話の時に出た言葉だった。焚き火というのは最も根源的かつシンプルなアートであって、そしてその焚き火がもたらす場は、あらゆるものを「諦念」させるような力を持った場所だ、といったような話だった様に思う。

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もしかしたらアートは、手に負えない、抗えないなにか、諦めるしかないような側面を持ち合わせているのかもしれない。依田さんの言うように、変えようのない根っこの部分、というふうに考えても辻褄が合う。

そして、いい意味でも悪い意味でも、これ、と定義できないからこそアートなのかもしれない。

だから、諦めてまるっと受け入れるしかないのかもしれない。

みんなアーティスト

今回の旅の中で、最も気のおけない、かつ尊敬する友人二人が、別々のタイミングで同じことを言った。

「みんなアーティストなのかもしれないね」

一人はTEDxSakuでアートディレクションを担当してくれて以来の友人で、デザインを仕事としているエムラさん。一緒に読書の森で依田さんと話をしたあと、しんみりとそう言って、そうかもなあ、と私も噛み締めながらその言葉をきいていた。

エムラさんは私にとって、大切な友人であると同時に憧れの的であり、私からするとものすごいアーティストだと思っている。もちろん彼女の作品という意味でもだけれども、様々な場面で触れる言葉の節々において、尊敬すべき独自の考え方があるという意味でも、である。

ところが彼女自身はアートに苦手意識があると言っていて、そんな事も含めて、そうかやっぱり、自覚のあるなしにかかわらず、みんなアーティストなのかもしれない、と私には思えた。

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もうひとりは、15年来の友人で、アートは勉強したことはない、というか勉強自体をあんまりしたことがない(と本人は言うけれど、吸収力と生きる力は人一倍ある、と私は尊敬している)、私のお姉ちゃん的存在のユリエさんだ。三軒茶屋のカフェで「アートってなんだと思う?」と聞いた瞬間に、間髪入れずに「みんなアーティストなんだよ!」とさらっと言い放った。自信たっぷりに。(答えになってないけど!)

「ねえ覚えてる?ルイ、オガタさんのこと、水みたいだねって言ったの。水みたいに掴むとなくなっちゃって、でも確かにそこにあって、冷たくなったり熱くなったりするよねって言ったんだよ、覚えてる?」

ユリエさんは続けてそういった。私はすっかり忘れていたけど、15年前の私はきっと、そんなことを言ったのかもしれない。オガタさんというのはかつての私達にとってカリスマ的な存在のミュージシャンだ。

「オガタさんは水みたいに掴みどころがなかったけど、最後はやっぱりちゃんと人のことを想っていたから、あんなに沢山の人が周りに集まってたんだと思う。どんなにすごいアーティストや表現者でも、孤独が好きな人も、最後の最後ではきちんと相手のことを考えられる人じゃないと、やっぱ人はついてこないし、残らないんだよ、本当に。いろんな人見てると本当にそうだんもん。みーんなアーティストなんだけどね。結局はやっぱり相手のことを思えるかどうかなんだよねえ。

それは本当に大事。私、今すっごい幸せだもん!ぜんっぜん勉強とか真面目にやってこなかったし、お母さんにもすごいひどいこと沢山言ったりして本当どうしようもないことしてきたけど、今、すっごい幸せなのは、そういうの出来てるからだと思うよ!」

やっぱり答えになっていない気がしたけど、ガハハと笑顔で言い放つユリエさんの笑顔や言葉や存在そのものが、もはやアーティストだよなあ、と私には思えて、妙に納得してしまった。

15年前、ユリエさんと出会って、それまで出会ったことのなかった種類の人達とつながり、私は表現することへの抵抗がなくなった。表現していいのだ、という安堵は、私の人生を大きく変えてくれた。

一見根拠がないゆりえさんの言い方は、なぜかいつも本当らしい。いつだってゆりえさんは立ち止まっている私をバシっと導いてくれる。根拠のない、でも何故かすごく確からしいやり方で。それはアートの手法そのもののようでもある気がした。

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先述の依田さんの言葉の通り、その人の「根っこ」がアートなのだとしたら、皆生きている人は多かれ少なかれアートの部分を持っていて、それをアートだとそれぞれが認識するかどうか、という違いだけなのかもしれない。そうしてユリエさんによれば、「根っこの部分で相手を想えるかどうか」ということが、それ以上に大事らしい。もちろん、幸せに生きるために、である。


価値をつけるな

この話は、そのまま南牧村のトマト農家兼創作家である高見澤憲一さんの話につながる。

「どうしても私たちは、出来上がったものに対して価値をつけたくなるんです。でもね、そうではなくて、何かを作ろうとするときのアイディアそのものだったり、アイディアを行為に移すことだったり、そのプロセスの一つ一つや、それを無心になって作り出している自分自身が、もうそのまま自分を支えているんです。」

憲一さんは4年前に出会った当初から、同じことを言っていた。人の生きざまを笑うな、と。そうだった、あの頃から憲一さんはずっとそう言っていた。

「他人の生き様を評価できるんですかっていうことですよ。できないでしょう」

簡単に使い捨てられるものではなく、遠い未来に続くもの、あるいは遠い昔からつながってきているもの。それは人間の生き様そのもの。それが評価されていようといまいと関係ないばかりか、評価すること自体がおこがましいと、憲一さんは言っている。

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みなそれぞれが生きるという行為を通じてアート活動をしている。それを自覚するも無自覚であるも人それぞれだけれど、生きることそのものがアートだという自覚を持って生きることは、少なくともマイナスにはならないのではないかと思う。

例えば私のように、必要最低限の生き方からなかなか抜け出せなかった人こそ、アートを自覚して生きたほうが、自分の生き方により寛容になれるかもしれない。「諦めて」様々なものを自分の人生に吸収できるようになるような気がする。自分の生き方に寛容になれるということは、そのまま他人の生き方にも寛容になれるということだ。ユリエさんがきっぱりと大事だと言っていた、「相手を想えるかどうか」ということにもつながってくるのではないか。


「健康」の考え方

次に、もう一つのテーマ、「健康」について考えてみる。

健康ってなんだろう、どうやったら人は健康になるのだろう、健康だと感じるのだろう、そもそも健康になることがいいことなのか―。

これは20代の頃からの私のテーマだ。

大学では(落ちこぼれながらも)一応健康に関する勉強をしたし、大学在学中に出会った学外のコミュニティでの経験や、TEDxSakuの活動を通じて出会った様々な人や考え方、そして子どもたちとの生活、とりわけ重度障害児として生まれた第三子との生活の中で、「健康」に対する自分の考え方は変化していった。

結局の所、健康は美しさに似て、その人の育った文化とか、地域とか、家庭とか風景とかそういうもので形作られ、そしてそれはその人の生きる気力や実感であり、その人の生きる価値観そのものである。あなたの健康の秘訣は、あなた自身の中にしかない。

という結論(?)に今の所たどり着いた。(参照:健康は美しさににている

一方でやはり、健康についてきちんと専門家として研究をしている人といつかじっくりお話をしてみたい、とずっと思ってきた。

そこで思い当たったのが、学部時代に博士課程にいたソフトマッチョな先輩である。アカデミックな世界にあまり魅力を感じられなかった学生時代の最後、研究者らしからぬスポーツマン風の先輩の存在に密かに救われていたことをここにそっと告白する。

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今回、勇気をだして、今や多方面でご活躍の先輩に連絡をしてみた。

もと落ちこぼれの私としては、研究者として順風満帆な先輩にお会いするのはとても緊張したけれど、研究室のドアを開けたら15年前と変わらないスポーティで柔らかい印象の先輩がいて、一緒にいた4歳の息子ちゃんは超絶人懐っこく、一瞬で和んでしまった。

お話をきくと、研究というのは実に地道だということがわかった。ある一つの関係、あるいは一つの側面しか、一つの研究では切り取れないから、大きな知りたいテーマがあったとしても、本当に一つずつ、コツコツと切り取ってはつなぎ合わせていくしかない。

「つながり」とか「人間関係」と言ってもいろいろな捉え方がある。水平的と垂直的、ボンディングとブリッジング、その地域や人による違い。それらをどのように切り取ってどの部分を攻めるかを考えながら進むのが研究の世界の常のようだ。

せっかちな私はきっと、こういう世界では生きられないな、と思ったけれど、たくさんのことを勉強して知識のある人と話をするのは、新鮮でとても楽しい。自分が疑問に思っていたこと、考えていたことが、次々にラベリングされて、頭の中がクリアになっていくような感覚がした。

お話をしていて興味深かったのは、私が考えているようなことも、どうやらすでに研究対象として言葉にされているということ。

人が生きていく上で、自分の中のアート、軸とか根っことも呼べる部分、そういうものを自覚して、それにそって生きている人たちは、ブレがなく、幸せや健康、充足感を得られる生き方ができるのではないかなあ、というふうなお話をしたら、それは健康社会学の分野で研究されている「Sense of Coherence首尾一貫感覚」というのに近いのかもしれないね、と教えてもらった。

調べてみると、確かに一部そのように置き換えることもできるかもしれない、とも思えたし、いや少し違うのかもしれない、とも思えた。「アートを自覚して」という意味の部分が少し足りないような気もする。(ちゃんと理解していないで語るとちゃんとした研究者からのツッコミが怖いので、これくらいにしておこう…)

いずれにせよ、研究をする、ということは、言葉を与える、ということなのだ、と実感した。それはとても興味深く、整理整頓しながら不必要なものを洗い出して生きる方法を最初に学んだ私にとっては、ある意味で心地よい方法ではあった。

ただ一方で、アートがこれ、と定義できないからこそアートなのだとしたら、研究というアプローチ方法そのものがもはや適用できないのかもしれない、とも思う。

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研究者の話と、アートをわかりたい私と、アートに関わる魅力的な人達と、今を生きる沢山の人達の人生を想いながら、先輩におごってもらったガリガリ君をかじった。

結局のところ私は、健康が何かは明確にはよくわからなかったけれど(先輩は変化を見ることではないかと言った)、研究者のように緻密に思考をすすめるというよりは、一人の生きる人間として、自分のたどった感覚の道筋を描いてみたいのだろう。


存在としての肯定感

予定した人と合う約束の合間に、美術館やギャラリーに足を運んだ。アートが何か分かりたいと思ったし、何か分かるかもしれないと少しだけ思った。

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でも、実は、正直なところ、「生き方そのもの」というぼんやりしたもの以上の「アート」は、やっぱりよくわからなかった。。

でも、それでもいいんじゃないか、思えるようになったのが、この旅の大きな収穫だったと思う。

つまるところ、これ、と定義できないからこそアートなのだ。まるっと受け入れるだけでいいのだろう、きっと。

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いわきの回廊美術館の志賀さんと蔡國強さんの物語を書いた川内有緒さんにも会いにいった。何年も前から憧れていて、実は2年前からずっとお会いするチャンスを狙ってメッセージをやり取りさせて頂いていた有緒さんは、私にとって憧れのアーティストの一人で、ものすごく緊張して約束のギャラリー山小屋に向かった。

初めてお会いした有緒さんは、文字面から想像していたよりずっと今っぽい雰囲気で、さっぱりしていて、そして美人な人だった。美人なだけではなくて、とても強い人だな、という印象を受けた。周りの雑音をものともしない、強さ。きっとそこには深い深い努力があるのだろうけれど。

彼女の文章の知性と迫力と感性にはただただひれ伏す思いなのだけれど、有緒さんの書いた物語に出てくる志賀さんはめちゃくちゃアーティストだよね、ということには深く同意できて、そんな話ができるくらいには、アートとお近づきになれたような気もした。

有緒さんは、「存在としての肯定感」が大事なのではないか、と言った。わからないものをわからないまま描くことで、伝わるものがあると。まさに、まるっと受け入れる、ということではないか。

わからないものや未知のものに遭遇した時、自分が持っている言葉を当てはめようとせず、それはそれ、わからないもの、として表現することはしかし、なんと難しいことだろう。

アートそれ自身も多分同じ、存在がそのまま表現なのであって、だからこそアートとして存在するのだろう、とふと思う。

社会にもっとアートを

今回、改めてアートについて考えたいと思ってお話を聞いた一人であり、TEDxSakuでの出会い以来ずっと尊敬しているサワさんが、「アートは社会にとって本来無用のものであり、その無用性が結果的にとても重要であるのだから、社会はアートに意味を求めるべきではない」といった捉え方を紹介してくれた。

この説明には深く頷いてしまった。諦めて受け入れるしかなく、評価すべきでもないアート、定義することができないからこそのアート、ということと一致する。

でも、その上でサワさんが付け足してくれた次の言葉に、より深く納得することになった。

『無用』とは社会や仕事の効率性を高めるための有用なものではないと思いますが、そこに「人間性」が残されているのかなと思います


サワさんの言う、人間性。

憲一さんの言う、人の生きざま。

アートは、社会や生活にとって必ずしも必要不可欠なものではないけれど、アートをアートたらしめているのはこれ、人間性、なのだろう。だからこそアートに関わる人達は魅力的なのだろうし、だからこそ「無用」なはずのアートが、実はとても大切なのだろう。

ここでふと、息子と行った日本科学未来館で出会った宮廻正明氏の言葉を思い出した。

“芸術とは、ある意味では一直線に登っていくことではなく、いかに回り道をしながら登っていくかということ。螺旋状に登っていくということが、大きな感動を呼び起こす” (未来館で走り書きした自前のメモ参照)

登りきることを目的とせず、無駄に、あるいは無意味に回り道をして生きることの、美しさや豊かさ。すなわちこれが、人間性ということではないか。

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アートは人間が人間らしく生きることそのものだったのだ。

だから、アートを意識して生きることは、自分の健康や幸せがどんなものかを意識して生きることと同じだと思う。アートが評価されるとか健康が評価されるとかそういうことではなくて、それを「自覚し、意識して生きること」は、人間が人間性をもって幸せに健康的に生きるために、ほとんど不可欠なことなのではないか。そしてそれはそのまま、他人を尊重し、他人を思いやることにもなる。

私は、私の意識の中に、もっとアートを意識して生きるべきではないか。子どもたちにも、もちろんハルにも、もっとアートを自覚させる努力が必要なのではないか。

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社会はアートに意味を求めるべきではない、だからこそ私は言いたい。

社会に、もっとアートを。

世界に、もっとアートを。





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